2014年9月29日月曜日

三國遺事:古朝鮮【王儉朝鮮】

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ◎三國遺事:卷第一 紀異1 古朝鮮【王儉朝鮮】

 (原文)

  魏書云 

  乃往二千載 有壇君王儉 

  立都阿斯達

  【經云無葉山 亦云白岳 在白州地 或云在開城東 今白岳宮是】 

  開國號朝鮮 與高同時

 (訳文)

 『魏書』に云う。 

 すなわち二千載の往(いにし)え、壇君王儉(だんくんおうけん)有り、

 都を阿斯達

 【經に無葉山と云い、また白岳と云う。

  白州の地に在り。あるいは開城の東に在りと云う。

  今の白岳宮これなり。】に立て、

 國を開き朝鮮と號す。

 高(=堯/三皇五帝のひとり。)と同じ時なり。


 (原文)

  古記云

  昔有桓因【謂帝釋也】 庶子桓雄

  數意天下 貪求人世 

  父知子意 下視三危太伯 可以弘益人間

  乃授天符印三箇 遣往理之 

  雄率徒三千 降於太伯山頂【即太伯今妙香山】 神壇樹下

  謂之神市 是謂桓雄天王也

  將風伯雨師雲師 而主穀主命主病主刑主善惡

  凡主人間三百六十餘事 在世理化

 (訳文)

  『古記』に云う。

  昔、桓因【帝釋を謂う。】が庶子の桓雄有り、

  數(たびたび)天下を意(おも)い、人の世を貪求す。

  父、子の意を知り、下に三危太伯

  (さんきたいはく/三危はみっつの高い山。

  太伯はそのひとつで、下に見える太伯山のこと。)を視るに、

  もって弘(ひろ)く人間を益すべきなり。

  すなわち天符印(下に見える風伯・雨師・雲師の三神の印綬)

  三箇を授け、往(ゆ)きてこれを理(おさ)めしむ。

  雄、徒三千を率(ひき)い、

  太伯山の頂【即ち太伯は今の妙香山なり】の

  神壇樹の下(もと)に降(くだ)る。 
 
  これを神市と謂い、これを桓雄天王と謂う。

  風伯・雨師・雲師を將(ひき)い、穀を主(つかさど)り、

  命を主(つかさど)り、病を主(つかさど)り、

  刑を主(つかさど)り、善惡を主(つかさど)り、

  凡(すべ)て人間の三百六十餘事を主(つかさど)り、世に理化あり。


 (原文)

  時有一熊・一虎 同穴而居

  常祈于神雄 願化爲人

  時神遺靈艾一・蒜二十枚曰 爾輩食之 不見日光百日 便得人形

  熊・虎得而食之 忌三七日

  熊得女身 虎不能忌 而不得人身

  熊女者無與爲婚 故毎於壇樹下 呪願有孕

  雄乃假化而婚之 孕生子

  號曰壇君王儉

 (訳文)

  時に一熊・一虎有り、穴を同じうして居す。

  常に神雄に祈り、化して人と爲るを願う。

  時に、神、靈艾一・蒜二十枚を遺わし曰く、

  「爾輩(なんじら)これを食い、百日日の光を見ざれば、

   すなわち人の形を得るべし」と。 

  熊・虎、得てこれを食い、忌むこと三七(=二十一)日。

  熊は女身を得るも、虎は忌むこと能(あたわ)ずして人身を得ず。

  熊女は婚を爲す無く、

  故に毎(つね)に壇樹の下に孕(はらむ)こと有らんと呪願す。

  雄、すなわち假化してこれと婚し、孕みて子を生む。

  號(なづ)けて壇君王儉と曰う。


 (原文)

  以唐高即位五十年庚寅

  【唐高即位元年戊辰 則五十年丁巳 非庚寅也 疑其未實】

  都平壤城【今西京】 始稱朝鮮

  又移都於白岳山阿斯達

  又名弓【一作方】忽山

  又今彌達 

  御國一千五百年

 (訳文)

  もって唐高(=堯/三皇五帝のひとり。)の

  即位五十年庚寅(かのえ・とら)

  【唐高の即位元年は戊辰(つちのえ・たつ)。

   すなわち五十年は丁巳(ひのと・み)なり。

   庚寅(かのえ・とら)に非(あら)ず。

   その未だ實ならざるを疑う】、

  平壤城【今の西京なり】に都し、始めて朝鮮を稱す。

  また都を白岳山の阿斯達に移す。

  またの名を弓【あるいは「方」に作る】忽山、または今彌達という。

  國を御(おさ)めること一千五百年。


 (原文)

 周虎王即位己卯

 封箕子於朝鮮 

 壇君乃移藏唐京 後還隱於阿斯達 爲山神

 壽一千九百八歳

 (訳文)

 周の虎王(周の「武王」のこと。

 高麗の二代・惠宋帝の諱が「武」であったため、

 武の字の使用を避けて「虎」と書いたもの)の

 即位己卯(つちのと・う)。

 箕子(きし/末尾の註1を参照)を朝鮮に封ず。

 壇君、すなわち藏唐京に移り、後に阿斯達に還り隱れ、山神と爲る。

 壽、一千九百八歳。


 (原文)

  唐裵矩傳云 

  高麗本孤竹國【今海州】

  周以封箕子爲朝鮮 漢分置三郡

  謂玄菟-樂浪-帶方【北帶方】

  通典亦同此説【漢書則眞臨樂玄四郡 今云三郡 名又不同 何耶】

 (訳文)

  唐の『裵矩傳』に云う。

  高麗はもと孤竹國【今の海州】なり。

  周の箕子を封ずるをもって朝鮮と爲し、漢は分かちて三郡を置く。

  玄菟(げんと)・樂浪(らくろう)・帶方(たいほう)

 【北帶方】と謂う。

 『通典』、

 またこの説に同じ

 【『漢書』はすなわち眞・臨・樂・玄の四郡。

  今は三郡と云う。

  名、また同じからず。何(いか)にや】。


  註1:箕子(きし)/殷(商)の公子。

  殷王朝の最後の皇帝紂王(ちゅうおう)につかえ、

  その乱行(酒池肉林)をいさめたが聞き入れられず、

  自ら狂人をよそおい奴婢となって身を隠したが

  紂王に見つかり幽閉される。

  やがてのちに殷を滅ぼした周の武王に助け出された。

  周の武王は箕子に殷が滅びた理由をたずねたが、

  箕子はその問いには直接答えず、政治のあるべき姿を語った。

  武王は「箕子に殷が滅びた理由をたずねても、

  彼がその王の悪口をいうわけがない。

  箕子はつらい思いをしたであろう。

  このようなことをたずねた余が愚かであった」と悔いて、

  箕子を朝鮮に封じたという。

  これがいわゆる「箕子朝鮮」である。

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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