2014年9月28日日曜日

赫居世居西干(2)

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《赫居世居西干》

 (原文)三十八年春二月 遣瓠公聘於馬韓 

    馬韓王讓瓠公曰 辰卞二韓 爲我屬國 比年不輸職貢

    事大之禮、其若是乎

    對曰 我國自二聖肇興 人事修天時和

    自辰韓遺民 以至卞韓樂浪倭人 無不畏懷

    而吾王謙虚 遣下臣修聘 可謂過於禮矣 

    而大王赫怒 劫之以兵 是何意耶

    王憤欲殺之 左右諫止

    乃許歸

 (訳文)三十八年(前20年)

    春二月、瓠公を遣わして馬韓に礼訪させた。

    馬韓王が瓠公に控えめに言った

    「辰韓と弁韓の二韓は我が属国であるが、

     ここ数年は貢物を献上しない。

     大国に仕える礼儀は、そのようなことでよいのか」。

    「我が国は二聖(始祖と閼英)が建国してより、

     人事を修め、天候は穏やか、倉庫は充実、人民は敬譲。

     辰韓の遺民から弁韓、楽浪、倭人に至るまで、

     畏れ懐かざるはなし。

     しかし、吾が王は謙虚に、臣下を遣わして修好に努めるのは、

     過ぎたる礼儀だと言える。

     而して大王は激怒して、兵を以てこれを脅迫する。

     これは如何なる意なりや」と応答した。

    馬韓王は激怒し、これを殺そうとしたが、

    左右の重臣が諫止し、帰ることを許した。

 (原文)前此 中國之人 苦秦亂東來者衆

    多處馬韓東 與辰韓雜居

    至是 盛

    故馬韓忌之 有責焉

    瓠公者 未詳其族姓

    本倭人

    初以瓠腰 渡海而來 故稱瓠公

 (訳文)これ以前のことだが、中国の人々は秦の動乱に苦しみ、

    東に来る人が多かった。

    その多くが馬韓の東に住み、辰韓の人々と雑居していた。

    ここに至って隆盛となった。

    それ故に馬韓はこれを忌み嫌って責めたのだ。

    瓠公は、その族と姓は未詳。

    本は倭人。

    初めは腰に瓢箪をぶらさげて、海を渡って来たことから、

    瓠公と称される。


 (原文)三十九年 馬韓王薨

    或説上曰 西韓王前辱我使 

    今當其喪 征之其國 不足平也

    上曰 幸人之災 不仁也

    不從

    乃遣使弔慰

 (訳文)三十九年(前19年)

    馬韓王が薨じた。

    或者が王に説いて曰く

    「西の韓王は前に我が国の使者を侮辱した。

     今、その服喪にあたり、その国を征伐すれば、平定は容易い」。

    王が曰く

    「他人の不幸を幸いとするのは仁徳ではない」と従わず、

    遣使を以て(馬韓に)弔意を表わした。


 (原文)四十年 百濟始祖温祚立

 (訳文)四十年(前18年)

    百済の始祖「温祚」が立った。


 (原文)五十三年 東沃沮使者來 獻良馬二十匹

    曰:寡君聞南韓有聖人出、故遣臣來享。

 (訳文)五十三年(前5年)

    東沃沮の使者が来て、良馬二十匹を献じた。

    曰く

    「小国の君主、南韓に聖人が出現したと聞き、

     臣を遣わして享受を請いに来ました」。


 (原文)六十年秋九月 二龍見於金城井中

    暴雷雨、震城南門。

 (訳文)六十年(西暦2年)

    秋九月、二匹の龍が金城の井戸の中に現われた。

    雷雨が暴れ、金城の南門に落雷した。


 (原文)六十一年春三月 居西干升遐

    葬蛇陵 在曇巖寺北

 (訳文)六十一年(西暦4年)

    春三月、居西干(王)が昇天。

    蛇陵に葬る。

    曇巖寺の北に在る。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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