2014年9月20日土曜日

始祖赫居世(5)

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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪始祖赫居世≫

 《新羅始祖の名は”鹿児島王”》

 新羅の場合はさらに、もっと直接的な出身地証明がある。

 始祖王・赫(かく)居世の時の大臣はさきにも話した瓠公だが、

 彼以外の家臣の名は出てこないから、

 彼が最高の地位にいたことは間違いない。

 この人物は『三国史記』編集時には

 もう族姓がはっきりしなくなっていたが、

 もと倭人で、瓠(ひょうたん)を腰につけて

 海を渡って来たから瓠(こ)公と呼ばれた、と明記してある。

 ところが王様の赫居世もまた

 <瓠>という名の変化した<朴>という名をもっている。

 その理由を、

 辰韓の人たちは<瓠>を<朴>というので、

 <瓠>のように大きな卵から生まれたから

 <朴>を姓にしたのだと書いている。

 人が卵から生まれることはないので、これは理由にはならない。

 <瓠>は瓠公とまぎらわしいので、

 だれかが同音の<朴>という字を当てたのだとみる方が、

 より合理的である。

 ということは、赫居世と瓠公は二人でなく同一人で、

 乏しい古記録をよせ集めたとき、

 二とおりの史料があったために分化が起こつたのである。

 それを証明するのは、赫居世(カコシ)の名である。

 これは赫居世と読める配列になっている。

 これに古代の国称、国を<マ>と呼んだものを下につけると

 赫居世国は<カコシマ>となり鹿児島と当て字しても無理ではない。

 とすれば<瓠>と<朴>が同音だというのは日本語、

 少なくとも鹿児島方言でなければならないことになる。

 <瓠>は<ヒサゴ>、<ホウ>。

 <朴>は<ボク>、<ホウ>の音をもっている。

 <瓠>は『倭名類聚鈔』巻一六の六、杓(しゃく)の中に、

 「瓠は匏(ハウ)也、匏薄交(ハクコウ)反可為飲器者也」と書いてあり、

 包(ホウ)と薄(ハク)の音があることを示している。

 朴の方は巻二〇に和名「保々(ホホ)」であると説明している。

 ということは、瓠と朴は<ホー>という発音でだけ一線になる字で、

 この鹿児島王が別に<ホホ>という名をもっていたことを示している。

 いま鹿児島神宮の主祭神は

 彦火火出見(ひこほほでみ)の尊(みこと)(日子穂穂出見命)である。

 <火火>も<穂穂>もまさに<ホホ>である。

 さきの新羅の地名が南九州のものと合い、

 今また始祖の名が日本の皇祖と一致する。

 これはけっして偶然ではない。

 新羅にはもう一人始祖といっていい人物がいる。

 それは四代・脱解王である。

 [脱解紀]のはじめは次のようなものである。

 「脱解は倭国の東北千里にある多婆那(たばな)国の生まれである。

 その国の王が女国の王女と結婚したところ、

 妊娠したのに子どもが生まれず7年もかかって

 やっと生み落としたものは、

 なんと、大きな卵だった。

 王はいやな顔をして

 『人が卵を生むとは不吉なことだ。棄ててしまえ』と命じたので、

 女王は卵を布でつつんで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。

 箱ははじめ金官国に流れついたが、

 その国の人は気味悪がって取らなかったので、

 また流れていって辰韓の阿珍浦についた。

 浜辺にいた老婆が箱を明けてみると、

 男の子が入っていたので家へ連れて帰って育てたところ、

 背の高い、知識も人なみすぐれた好青年になった。

 -中略-

 老母は『お前は普通人ではないから学問で身を立てなさい』といい

 脱解も励んだので、

 3代の南解次次雄王がその賢さをきいて王女の婿に選び、

 4代目の王になったのである」

  だいたいこんなふうに書いて新羅王統の三つの家柄のうち、

 「昔」という姓の始祖であることこの昔という字は、

 老婆が箱を見つけたとき、

 鵠(かささぎ)が鳴いてついて来たからだというが、

 鵠はを記録しているのである。

 ジャクの音に対する当て字から生まれた物語り上の幻想で、

 <ジャク>は邪久国、邪古国という当て字で

 『新唐書』などに記録された

 屋久島(やくしま)の古名であると仮定すると、

 その出身地名が姓になるという原則に一致する。

 この<ジャク>は、本来琉球を意味するという説がある。

 その理由はいろいろいわれているが、

 それより現在も鹿児島弁では

 琉球を<ジキュ>または<ジク>と発音するという事実の方が、

 より強い説得力をもっている。

 <邪>の頭音は<ジ>であるから<邪久>は<ジキュウ>とも<ジク>とも読める。

 もちろん<邪>は後世の日本では<ヤ>とも読むようになるから、

 屋久とも共通である。

 これは屋久島が、琉球の人たちの移住によって地名が移ったものが、

 後世、<リュウキュウ>と<ヤク>の二つに区分して

 使われるようになったと考えるのがいちばん当をえている。

 ※出典:加治木義博 KOFUN 159~161頁

《参考》


 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 

  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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