2014年9月26日金曜日

山に天降った六部の人々(8)

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ※出典:新羅概史

 ≪『三国遺事』新羅始祖≫

 前漢地節元年壬子

 (古本云建虎元年。又云建元三年等。皆誤)

 三月朔。

 六部祖各率子弟、俱會於閼川岸上。

 議曰:我輩上無君主臨理蒸民、民皆放逸、自從所欲。

 蓋覓有德人、為之君主。立邦設都乎。


 前漢の地節元年(前69年)壬子

 [古本では建虎元年(25年)という。

  また建元三年(前138年)などともいうが、皆、誤りである]

 三月朔(一日)。

 六部の祖が各自子弟を率いて閼川の岸の上に集った。

 会議で曰く

 「我々の上には蒸(多くの)民を統治できる君主がおらず、

  民どもは皆、放逸(わがまま)で、自らの欲望に従っている。

  蓋(思うに)有德の人を求めて、これを君主と為し、

  邦を立て、都を建設しようではないか」。


 於是乘高南望、楊山下蘿井傍、異氣如電光垂地、有一白馬跪拜之狀。

 尋撿之、有一紫卵(一云青大卵)、馬見人長嘶上天。

 剖其卵得童男。

 形儀端美、驚異之、浴於東泉(東泉寺在詞腦野北)。

 身生光彩。鳥獸率舞。天地振動。日月清明。

 ここで高所に登って南を望むと、楊山の下、

 蘿井の傍に電光のごとく異様な気が地に垂れ込め、

 一頭の白馬が跪拜(きはい=地に膝を着ける拝礼)の姿勢をしていた。

 これを拾得しに訪れると、一個の紫色の卵(青い大卵ともいう)があり、

 馬は人を見ると、長く嘶いて天に駆け上った。

 その卵を割って男児を得た。

 容姿風貌は極めて美しく、これに驚いて、

 東泉(東泉寺は詞腦野の北に在る)で洗うと、

 身体から光彩を生じ、鳥獣が集まって舞い、

 天地が振動し、日月は清らかに輝いた。


 因名赫居世王(蓋鄉言也。

 或作弗矩內王言光明理世也。

 説者云。是西述聖母之所誕也。故中華人讚仚桃聖母。

 有娠賢肇邦之語是也。乃至雞龍現瑞產閼英。

 又焉知非西述聖母之所現耶)位號曰居瑟邯

 (或作居西干。初開□之時。自稱云。閼智居西干一起。

  因其言稱之。自後為王者之尊稱)

 因って名を赫居世王

 (思うに郷の言葉である。

  あるいは弗矩內では王を光明理世というのである。

  説者が言うには、これは西で言う聖母の所誕なり。

  故の中華人は仚桃聖母を礼賛した。

  有娠賢肇邦の語はこれである。

  雞龍が閼英に現れて吉祥を産んだ。

  また西でいう聖母の所現には非ずと知るなり)。
 
 位号を居瑟邯

 (あるいは居西干とも作る。

  初めて口を開いた時、閼智居西干と一緒にと自ら称したという。

  この言葉を彼が言ったことによって、自後、王者の尊称となる)。


 時人爭賀曰:今天子已降。宜覓有德女君配之。

 是日沙梁里閼英井(一作娥利英井)邊有雞龍現。

 而左脅誕生童女(一云龍現死。而剖其腹得之)姿容殊麗。

 然而唇似雞觜。將浴於月城北川。其觜撥落。因名其川曰撥川。

 当時、人々は先を争って祝賀して曰く

 「今、天子は降臨された。

  宜しく有德の娘を探して君主にこれを配偶すべし」。

 この日、

 沙梁里の閼英の井戸(一作には娥利英の出戸)の辺りで雞龍が現れ、

 左脇から童女が誕生した

 (龍が現れて死んだ。そして、その腹を開いてこれを得たともいう)。

 容姿は殊のほか端麗だった。

 然るに唇は鶏の觜(くちばし)に似ていた。

 月城の北川に連れていって洗うと、その觜が抜け落ちた。

 因って、その川の名を撥川(抜と撥は同音)という。


 營宮室於南山西麓(今昌林寺)奉養二聖兒。 

 男以卵生卵如瓠。鄉人以瓠為朴、故因姓朴。女以所出井名。

 名之二聖。年至十三歳、以五鳳元年甲子、男立為王。

 仍以女為后。國號徐羅伐。又徐伐

 (今俗訓京字云徐伐。以此故也)或云斯羅。又斯盧。

 南山の西麓(今の昌林寺)に宮殿を造営し、

 謹んで二人の聖児を養育した。

 男児は瓠(ひょうたん)のような卵から生まれた。

 郷の人は瓠を朴という。

 そこで姓を朴とした。女児は出現した井戸を以て名とした。

 二人を二聖と呼んだ。

 十三歳になった年、

 五鳳元年(前57年)甲子を以て男児を王に擁立。

 すぐに女児を王后にした。

 国号は徐羅伐(ソラボル)、

 または徐伐

 (今、習俗では京の字を徐伐「ソボル」

  と訓読みするのは、これ故である)、

 あるいは斯羅(シラ)、または斯盧(シロ)ともいう。


 初王生於雞井。故或云雞林國。以其雞龍現瑞也。

 一説、脱解王時得金閼智。而雞鳴於林中。

 乃改國號為雞林。後世遂定新羅之號。

 初め王は雞井で生まれた。

 それ故、あるいは雞林国ともいう。

 雞龍が現れたことは祥瑞である。

 一説には、脱解王の時、金閼智を得た。

 而して雞は林の中で鳴いたので、国号を雞林と改めた。

 後世、この号を新羅と定める。


 理國六十一年。王升于天七日。後遺體散落于地。

 后亦云亡。國人欲合而葬之。

 有大蛇逐禁、各葬五體為五陵、亦名蛇陵。

 曇嚴寺北陵是也。太子南解王繼位。

 治世六十一年。王は昇天し、天に七日いた。

 その後、遺体は散じて大地に落ちた。

 王后もまた亡くなったという。

 国人はこれを合葬しようとしたが、

 大蛇がいて追い払うことが許されないので、

 五体を五陵またの名を蛇陵に各々埋葬した。

 曇巌寺の北陵がこれである。

 太子の南解王が王位を継承した。

 「六部の祖」

 三国遺事は、

 上記の前段に

 「辰韓には昔、六村があった」として説明文を記している。

 六村      村長    六部             六姓

 閼川の楊山村  謁平    及梁部(後の中興部)      李氏の祖

 突山の高墟村  蘇伐都利  沙梁部            鄭氏の祖

 茂山の大樹村  俱(仇)禮馬 漸梁部・牟梁部(今は長福部)  孫氏の祖

 觜山の珍支村  智伯虎   本彼部(今は通仙部)      崔氏の祖

 金山の加利村  祇沱(只他) 漢岐部・韓岐部(今は加德部)  斐氏の祖

 明佸山の高耶村 虎珍    習比部(今は臨川部)      薛氏の祖

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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