2014年9月28日日曜日

瓠公(ここう)

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 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《瓠公》

 ≪信頼できる『三国史記』≫

 なぜ、三韓の始祖や重要人物が

 「倭人だった」と思わせる書きぶりになっているのか、わからない。

 [新羅本紀]の冒頭、始祖王の一番の重臣は瓠(こ)公といって、

 もと倭人とはっきり書いてある。

 また、4代・脱解王も

 倭国東北千里の多婆那(たばな)国出身だと明記してある。

 当の景徳王の先祖が倭人だという書き方になっているのである。

 そればかりではない。

 古い部分に限って倭兵が攻めて来たという記事が多出するし、

 倭女王卑弥呼が遣使してきた、という記事まである。

 それなのに、

 実際に日本との外交関係が複雑多岐になっていた

 6世紀初頭の智証麻立干

 (この王の時初めて新羅を国号とし、

 また王の死後諡号(おくりな)号をおくるようになる)から

 7世紀なかばの太宗(たいそう)武烈王に至る間、倭の字を見なくなる。

 こうした不思議は何を意味するのであろうか。

 もし、これが意識的に日本との関係を削り、

 対日優位を作りあげたいための工作のあとだとしたら、

 何もこんなにすっぱり倭の登場しない歴史を作るより、

 じやんじゃん倭をやっつけて勝利に勝利を重ねた記事を

 デツチあげればいいのである。

 それをしないで、しかも倭がまるで登場しないことは、

 そうした人為的な消去がおこなわれたのではなく、

 何か特殊事情があって倭の名が現れないのであって、

 記録は正しく、本当のことを正直に書き、

 決して小細工などしていない、と考える方が自然である。

 だが倭がなぜ出てこないのか?

 これは新羅自身が倭だからなのである。

 まさか? 

 そんなバカなことが? 

 とお考えかと思う。

 しかし当の新羅王が、それを証言している記録が別にあったら、

 あなたはきっと納得なさるに違いない。

 しかし本当にそんなものがあるだろうか。

 ある。

 あなたがよくご存知の、「倭の五王」たちの記録なのだ。

 ※出典:KOFUN138頁


 ≪新羅始祖の名は”鹿児島王”≫

 新羅の場合はさらに、もっと直接的な出身地証明がある。

 始祖王・赫(かく)居世の時の大臣はさきにも話した瓠公だが、

 彼以外の家臣の名は出てこないから、

 彼が最高の地位にいたことは間違いない。

 この人物は『三国史記』編集時には

 もう族姓がはっきりしなくなっていたが、

 もと倭人で、瓠(ひょうたん)を腰につけて

 海を渡って来たから瓠(こ)公と呼ばれた、と明記してある。

 ところが王様の赫居世もまた

 <瓠>という名の変化した<朴>という名をもっている。

 その理由を、辰韓の人たちは<瓠>を<朴>というので、

 <瓠>のように大きな卵から生まれたから

 <朴>を姓にしたのだと書いている。

 人が卵から生まれることはないので、これは理由にはならない。

 <瓠>は瓠公とまぎらわしいので、

 だれかが同音の<朴>という字を当てたのだとみる方が、

 より合理的である。

 ということは、赫居世と瓠公は二人でなく同一人で、

 乏しい古記録をよせ集めたとき、

 二とおりの史料があったために分化が起こつたのである。

 それを証明するのは、赫居世(カコシ)の名である。

 これは赫居世と読める配列になっている。

 これに古代の国称、国を<マ>と呼んだものを下につけると

 赫居世国は<カコシマ>となり鹿児島と当て字しても無理ではない。

 とすれば<瓠>と<朴>が同音だというのは日本語、

 少なくとも鹿児島方言でなければならないことになる。

 <瓠>は<ヒサゴ>、<ホウ>。

 <朴>は<ボク>、<ホウ>の音をもっている。

 <瓠>は『倭名類聚鈔』巻一六の六、杓(しゃく)の中に、

 「瓠は匏(ハウ)也、匏薄交(ハクコウ)反可為飲器者也」と書いてあり、

 包(ホウ)と薄(ハク)の音があることを示している。

 朴の方は巻二〇に和名「保々(ホホ)」であると説明している。

 ということは、瓠と朴は<ホー>という発音でだけ一線になる字で、

 この鹿児島王が別に<ホホ>という名をもっていたことを示している。

 いま鹿児島神宮の主祭神は

 彦火火出見(ひこほほでみ)の尊(みこと)(日子穂穂出見命)である。

 <火火>も<穂穂>もまさに<ホホ>である。

 さきの新羅の地名が南九州のものと合い、

 今また始祖の名が日本の皇祖と一致する。

 これはけっして偶然ではない。

 新羅にはもう一人始祖といっていい人物がいる。

 それは4代・脱解王である。

 [脱解紀]のはじめは次のようなものである。

 「脱解は倭国の東北千里にある多婆那(たばな)国の生まれである。

 その国の王が女国の王女と結婚したところ、

 妊娠したのに子どもが生まれず7年もかかって

 やっと生み落としたものは、なんと、大きな卵だった。

 王はいやな顔をして

 『人が卵を生むとは不吉なことだ。棄ててしまえ』と命じたので、

 女王は卵を布でつつんで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。

 箱ははじめ金官国に流れついたが、

 その国の人は気味悪がって取らなかったので、

 また流れていって辰韓の阿珍浦についた。

 浜辺にいた老婆が箱を明けてみると、

 男の子が入っていたので家へ連れて帰って育てたところ、

 背の高い、知識も人なみすぐれた好青年になった。

 -中略-老母は

 『お前は普通人ではないから学問で身を立てなさい』といい

 脱解も励んだので、

 3代の南解次次雄王がその賢さをきいて王女の婿に選び、

 4代目の王になったのである。

 大体こんなふうに書いて新羅王統の三つの家柄のうち、

 「昔」という姓の始祖であることこの昔という字は、

 老婆が箱を見つけたとき、

 鵠(かささぎ)が鳴いてついて来たからだというが、

 鵠はを記録しているのである。

 ジャクの音に対する当て字から生まれた物語り上の幻想で、

 <ジャク>は邪久国、邪古国という当て字で

 『新唐書』などに記録された屋久島(やくしま)の

 古名であると仮定すると、

 その出身地名が姓になるという原則に一致する。

 この<ジャク>は、本来琉球を意味するという説がある。

 その理由はいろいろいわれているが、

 それより現在も鹿児島弁では

 琉球を<ジキュ>または<ジク>と発音するという事実の方が、

 より強い説得力をもっている。

 <邪>の頭音は<ジ>であるから<邪久>は<ジキュウ>とも<ジク>とも読める。

 もちろん<邪>は後世の日本では<ヤ>とも読むようになるから、

 屋久とも共通である。

 これは屋久島が、琉球の人たちの移住によって地名が移ったものが、

 後世、<リュウキュウ>と<ヤク>の二つに区分して

 使われるようになったと考えるのがいちばん当を得ている。

 ※出典:KOFUN159~161頁

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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