2014年9月19日金曜日

『三國史記(さんごくしき)』とは

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ◎『三国史記(さんごくしき)』とは

 ウィキペディア(Wikipedia)等によれば、

 高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、

 三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを

 対象とする紀伝体の歴史書。

 朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。

 1143年執筆開始、1145年完成、全50巻。

 ≪解説≫

 『三国史記』は

 12世紀の高麗の史官、金富軾(コムプシ)の選修になるもので、

 いわば『日本書紀』に似ている、

 第三十四巻と第三十五巻が地理誌になっていて、

 州、郡、県名が、

 二つあるいは三つの新旧名を対照して、全部記録されている。

 『三国史記』は朝鮮の正史だとはいっても、

 12世紀半ばの1145年

 (日本の平安後期、源義家・西行法師の時代)

 になって「高麗」で編集された。

 日本の『記・紀』より、

 さらに4世紀以上も後のもので、

 しかも別の国の記録を寄せ集めてあるから、

 編集にはかなりの無理が見られ、

 年代なども適当にはめこまれたものが多い。

 《『三国史記』と高族「欠史天皇」の実体》

 『三国史記』は9世紀に高麗(コウライ)が朝鮮半島を征服してから、

 新羅35代景徳王以来、反日感情にみちている新羅史料をもとに、

 中国史料から引用したものを加えて作った作品で、

 日本と朝鮮半島とは血縁はないと強調する目的で作った、

 意図的に手を加えた歴史書なので、

 これまではその内容は全て朝鮮半島だけの歴史だと思い込まれていた。

 しかし高句麗王たちは高(コウ)を意味する

 孝(コウ)の字のついた欠史天皇として、

 神武天皇と崇神天皇の間に配列され、

 その系譜をみると卑弥呼も、日葉酢媛も共に、

 その王統の出身なのである。

 ここで日葉酢媛の名乗りの検討を手抜きしてはならない。

 それがパーリ語仏典の教義の名「ミーマンサー」

 奉じる子という意味であることは、
 
 カールグレン(略称KG)発音に復元して、

 その方言差を一覧表にしてみると、

 パーリ語の意味とは別の、

 現実的な職務内容や、関連のある史実など細部が見えてくる。

 当て字  KG発音略 

 KG発音カナ書き 倭音原音 その真意と関連名

 伊支馬  ier tieg ma       イェーチェッマ  イチマ   伊江島

 家島  市松

                           イチメ    倭姫命  斉女  市女

                     (大隅音)        壹国     一宮  壹與

 弥馬升  miar ma siang  

 ミャーマシヤング ミーマンサング ミーマンサー子

                (北九州音)   (大隅音) 宗務・法務大臣

 ミーマンサーは仏教の教義名だが、

 それが沖縄語化したものがさらに北九州音で書かれているのは、

 首都が伊都国にあった時代の官制を、

 この時もまだ継承していたことを意味する。

 弥馬獲支 miar ma gwak tieg 
 ミャーマグワチグ ミーマンガチグ ミーマン書き子

                        (大隅音) 内閣書記官長

 奴佳鞮  No keg dieg   

 ノケッディェグ  ヌケデッグ 抜け出た者を選ぶ子

                        (大隅音) 試験官・文部大臣

 でおわかり戴いたと思うが、

 それは『魏書倭人章』が弥馬升という当て字で

 記録したものと同じだった。

 その弥馬升には崇神天皇の皇后御間城姫の名も一致するし、

 地名にも美作(ミマサカ)(岡山県)が実在するので、

 それが正しいことが確認できる。

 この御間城姫皇后が卑弥呼が死んだ直後、

 卑弥呼の後継者になったが、

 気性が激しくて男王・崇神天皇の手に負えず、

 別居してしまったことが再び内乱を招いて崇神政権は崩壊した。

 『日本書紀』では御間城姫皇后は卑弥呼の死後は

 「天照大神」と呼ばれている。

 日葉酢媛は卑弥呼からは

 3代目の天照大神であり、3代目卑弥呼なのでもある。

 《いま我が建国史の重要史料になった『三国史記』》

 新羅35代・景徳王記を読むと、その12年、

 日本の国使が来たが傲慢無礼(ごうまん・ぶれい)な態度だったので、

 景徳王は会わなかったという記事がある。

 これは753年のことだから、
 
 天武天皇の壬申(じんしん)の乱(672年)から80年たっていたが、

 日本の使者は新羅王が知事だったことや

 壬申(じんしん)の乱の敗北者だったことをよく知っていた。

 それが態度に現われていたので、会わなかったばかりか、

 それが原因で、倭国時代の遺物である地名まで全面改定して、

 鬱憤(うっぷん)を晴らしたのである。

 ところが『三国史記』は改名以前の地名を記録している。

 それをみると倭国時代の地名が日本語だったとよくわかるので、

 景徳王は逆に歴史の真相を裏書きした結果になっている。

 新羅が太古からの独立国だったのなら、

 何も地名を変更する必要はなく、

 反対に尊重するし、

 もとの高句麗や百済の地名まで変える必要など、

 あるはずがないからである。

 これを一つだけ見ても、新羅独立以前は、

 半島が倭国の領土だったことは動かない。

 またこのことは新羅の起源を書く神話が、

 半島のものではなかったことも教えてくれた。

 そこにある地名が南九州のものだということは本書でもお話ししたが、

 荒唐無稽(こうとうむけい)にみえる話もよく検討すれば史実につながる。

 この意味で『三国史記』は朝鮮半島史はもちろんだが、

 我が国の建国史にとっても、

 今、重要で有力な史料に変身したことをよくご認識戴きたい。

《参考》



 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  


 牛頭を象った神社建築の棟飾部


 本生図と踊子像のある石柱


 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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