Matのジオログ
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
≪國號徐那伐≫
《ヤマトの語源と定着の経過》
卑弥呼政権の後身「愛媛の国」時代の首都が、
いまの宇和あたりにあったとすれば、
それにつづく
壹與系政権の「伊豫の国」誕生当時の首都はどこにあったのだろう?。
これは垂仁天皇がモデルである
『海幸・山幸』物語から見ていけばよくわかる。
海幸は巴利の都を南九州語で発音した
巴利都(ハイト)(=いまの隼(ハイ)人)のハイに、
中国語の海(ハイ)の字を当て字したもの。
山幸は、その海幸と争って勝った相手側であり、
その卑弥呼政権を倒して勝ち、
巴利国民=隼人に君臨したのは位宮と壹與たちである。
その跡を継いでそこに君臨したのが応神天皇の八幡。
この八幡はヤマンまたはヤマと読めるから、
海人に対して山人(ヤマト)と呼ばれたが、
それはカリエン人もギリシャ人も、
ヤマトやヤマトロンというシュメールの地名を知っていたからである。
しかしそれは位宮たちが、
そこからやってきた人々だというのではない、
八幡とは中国語でギリシャ人を指すヤバーナに対する
我が国での当て字であって、
その居住地の中心は種子島の野間(のま)にあった。
そこは奴国(ノマ)と書かれているから、
ヤマとノマの二つの発音が当時すでに使われていたことがわかる。
位宮と壹與の事跡にはイオニヤを意味するパーリ語
「ヨナ=与那(ヨナ)・徐那伐(ヨナバル)」のつく地名が多い。
また卑弥呼と壹與とは
天照大神や赫夜(かぐや)姫として
「金髪」だったことがが強調特記され、
ギリシャ系の出身を証明している。
※出典:大学院講義録06 21頁
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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