2014年9月24日水曜日

徐那伐(10)

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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪國號徐那伐≫

 《品陀和気の由来は海神ポントスから》

 しかし<八幡>は少なくとも2人いる。

 わかりやすく要約すると、

 『大隈正八幡縁起』にある<オオヒルメ>が

 海を渡って<隼人>に連れてきた<八幡>は、

 卑弥呼時代の3世紀に<狭穂姫皇后>が生んだ垂仁天皇の皇子・

 <本都別>(ホムツワケ・ホントワケ)だとわかっている。

 もう一人はずっと後の4世紀に<武内宿祢>に連れられて

 角我の宮に詣でて、

 そこに居た神様または王と名前を交換したために

 品陀和気(ホンタワケ)または誉田別になった幼い皇子だ。

 名は同じでも年齢が大きく違っている。

 あとの方が仁徳天皇の父の応神天皇である。

 3世紀の本都別>は南九州の南の海にある島で生まれている。

 そこはギリシャ人が支配していた

 <ヨナ国>(イオニヤ=ギリシャのパーリ語)圏で、

 海人たちの世界だったから、

 国の名も<ポセイドン>(百済(ホセ)出水(イヅン))など

 海神の名をつけていた。

 このことを考えると<本都別>という名も

 海神の<ポントス>にピッタリ合っている。

 オオヒルメこと壹與は『三国史記』の新羅始祖王赫居世で

 <徐那伐>(ヨナバル=沖縄の与那原)で即位しているから、

 与那=ギリシャ人である。

 彼女が連れてきた姉の子が

 <ポントス>という名だったの当然のことである。

 しかし沖縄語圏では<oe音>は使わないから

 <ポントスビコ>は<フムツビチ>になる。

 しかし文字は誉めるの誉(ホメ)をフムとして使い、

 <誉都別>と書いたのである。

 これが<ホムタの由来>なのだ。

 ※出典:大学院講義録09 19頁

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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