Matのジオログ
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
≪國號徐那伐≫
《品陀和気の由来は海神ポントスから》
しかし<八幡>は少なくとも2人いる。
わかりやすく要約すると、
『大隈正八幡縁起』にある<オオヒルメ>が
海を渡って<隼人>に連れてきた<八幡>は、
卑弥呼時代の3世紀に<狭穂姫皇后>が生んだ垂仁天皇の皇子・
<本都別>(ホムツワケ・ホントワケ)だとわかっている。
もう一人はずっと後の4世紀に<武内宿祢>に連れられて
角我の宮に詣でて、
そこに居た神様または王と名前を交換したために
品陀和気(ホンタワケ)または誉田別になった幼い皇子だ。
名は同じでも年齢が大きく違っている。
あとの方が仁徳天皇の父の応神天皇である。
3世紀の本都別>は南九州の南の海にある島で生まれている。
そこはギリシャ人が支配していた
<ヨナ国>(イオニヤ=ギリシャのパーリ語)圏で、
海人たちの世界だったから、
国の名も<ポセイドン>(百済(ホセ)出水(イヅン))など
海神の名をつけていた。
このことを考えると<本都別>という名も
海神の<ポントス>にピッタリ合っている。
オオヒルメこと壹與は『三国史記』の新羅始祖王赫居世で
<徐那伐>(ヨナバル=沖縄の与那原)で即位しているから、
与那=ギリシャ人である。
彼女が連れてきた姉の子が
<ポントス>という名だったの当然のことである。
しかし沖縄語圏では<oe音>は使わないから
<ポントスビコ>は<フムツビチ>になる。
しかし文字は誉めるの誉(ホメ)をフムとして使い、
<誉都別>と書いたのである。
これが<ホムタの由来>なのだ。
※出典:大学院講義録09 19頁
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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