2014年9月20日土曜日

始祖赫居世(2)

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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪始祖赫居世≫

 《壹與と赫居世の一致点》

 林英樹氏訳『三国史記』(昭和49年・三一書房刊)によって、

 この人物みてみよう。

 「始祖の姓は朴氏で名は赫居世である。

  前漢の孝宣帝 五鳳元年 甲子[BC57]年の四月丙辰の日

 (あるいは正月十五日ともいう)に即位して居西千と号した。

  その時に年齢は13歳で、国名は徐那伐

  〔徐耶羅伐 徐耶伐 徐伐とも書く〕と称した。」

 1 「朴」は10世紀の日本の百科辞典

   倭名類聚鈔『(わみょうるいじゅしょう)』の「木類」を見ると、

   「厚朴、垂皮附」これを

   「厚き<ホホカシハ>の木」「ホホの皮」と読んでいる。

   「朴=ホホ」である。

   これは神武天皇の名「彦火火出見尊」の火火(ホホ)や、

   開化天皇の名「稚日本根子彦大日日」の日日と合う名である。

   私(加治木義博)著『邪馬臺国の風雲』

   (前出)で確認したように「神武天皇=垂仁天皇」であるから、

   壹與の父であり、

   その名乗りに「ホホ」があるのは当然であって、

   『三国史記』はそれに「朴」の字を当てたのである。

 2 「13歳で即位」は『魏書倭人章』に

   「壹與、年13を王とした」とあるのと一致している。

 3 「甲子」。その年は干支で甲子の年だったというのである。

 壹與は本当は何時、即位したのか分らない。

 卑弥呼の死後「国中不服」の後、狗奴国男王が勝利を収めて、

 始めて正式に女王になつたように見えるが、

 よく文面を観察してみると、

 それ以前に男王は

 「卑弥弓呼素(姫木=卑弥呼)王の父」と呼ばれている。

 これは老卑弥呼との対立が始まった時、

 すでに壹與は新「卑弥呼」として女王に担がれていた可能性がある。

 なぜなら彼女は「新羅の始祖」であるとすれば、

 それはとりも直さず「天智天皇の日本」の始祖でもある。

 「天皇家の始祖」が「天照大神」であることはだれでも知っている。

 その天照大神のモデル「オオヒルメ」は

 7歳で男の子を産んだという伝説をもった少女で、

 南の国の王女であり、鹿児島神宮の祭神「八幡」の母である。

 (私(加治木義博)著『日本神話の秘密』前出。参照)。

 こう見てくると彼女は狗奴国男王すなわち

 「山上王・位宮」が南九州へ侵入した時すでに

 「神秘な女王」だったのである。

 位宮は「位宮伝」でお話したように

 正始五年(244)に毌丘倹に破れて逃げた。

 その年は間違いなく「甲子」である。

 ※出典:加治木義博 邪馬壹国大移動116頁

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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