Matのジオログ
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
≪始祖赫居世≫
《壹與と赫居世の一致点》
林英樹氏訳『三国史記』(昭和49年・三一書房刊)によって、
この人物みてみよう。
「始祖の姓は朴氏で名は赫居世である。
前漢の孝宣帝 五鳳元年 甲子[BC57]年の四月丙辰の日
(あるいは正月十五日ともいう)に即位して居西千と号した。
その時に年齢は13歳で、国名は徐那伐
〔徐耶羅伐 徐耶伐 徐伐とも書く〕と称した。」
1 「朴」は10世紀の日本の百科辞典
倭名類聚鈔『(わみょうるいじゅしょう)』の「木類」を見ると、
「厚朴、垂皮附」これを
「厚き<ホホカシハ>の木」「ホホの皮」と読んでいる。
「朴=ホホ」である。
これは神武天皇の名「彦火火出見尊」の火火(ホホ)や、
開化天皇の名「稚日本根子彦大日日」の日日と合う名である。
私(加治木義博)著『邪馬臺国の風雲』
(前出)で確認したように「神武天皇=垂仁天皇」であるから、
壹與の父であり、
その名乗りに「ホホ」があるのは当然であって、
『三国史記』はそれに「朴」の字を当てたのである。
2 「13歳で即位」は『魏書倭人章』に
「壹與、年13を王とした」とあるのと一致している。
3 「甲子」。その年は干支で甲子の年だったというのである。
壹與は本当は何時、即位したのか分らない。
卑弥呼の死後「国中不服」の後、狗奴国男王が勝利を収めて、
始めて正式に女王になつたように見えるが、
よく文面を観察してみると、
それ以前に男王は
「卑弥弓呼素(姫木=卑弥呼)王の父」と呼ばれている。
これは老卑弥呼との対立が始まった時、
すでに壹與は新「卑弥呼」として女王に担がれていた可能性がある。
なぜなら彼女は「新羅の始祖」であるとすれば、
それはとりも直さず「天智天皇の日本」の始祖でもある。
「天皇家の始祖」が「天照大神」であることはだれでも知っている。
その天照大神のモデル「オオヒルメ」は
7歳で男の子を産んだという伝説をもった少女で、
南の国の王女であり、鹿児島神宮の祭神「八幡」の母である。
(私(加治木義博)著『日本神話の秘密』前出。参照)。
こう見てくると彼女は狗奴国男王すなわち
「山上王・位宮」が南九州へ侵入した時すでに
「神秘な女王」だったのである。
位宮は「位宮伝」でお話したように
正始五年(244)に毌丘倹に破れて逃げた。
その年は間違いなく「甲子」である。
※出典:加治木義博 邪馬壹国大移動116頁
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
0 件のコメント:
コメントを投稿