Matのジオログ
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
≪始祖赫居世≫
《位宮と壹與の即位地》
「京城」の語源になった「徐那伐」は、
姿は変っているが沖縄から関東地方にまで広がって
残っていることが分る。
それが沖縄人の足跡とどう関係があるかは今後の研究課題だが、
それがこれまで謎のままで残っている
「乎獲居(オワケ)の鉄剣」
(埼玉県行田市稲荷山古墳出土)に見つかった
「金象嵌銘文」などの解読に
大きく役立つという予測が生まれてくる。
当面の問題は壹與すなわち赫居世が即位した
「徐那伐」はどこか?ということである。
彼女の即位年は甲子の正始五年(244)だった。
その年は父の位宮が北朝鮮から落ちのびた年である。
老卑弥呼が狗奴国男王との不和を帯方郡に訴えたのは、
その3年後の正始八年(247)だったから、
正始五年にはまだ老卑弥呼政権は健在で、
とても九州には侵入できない。
位宮はまだ狗奴国男王になったばかりである。
当然、邪馬臺国より南の海の彼方にいた時である。
こう順を追って考え合わせると、
その「徐那伐」は九州本土の中央にある
熊本県の「米原(ヨナバル)」ではない。
どうしても沖縄の「与那原(ヨナバル)だったということになる。
これは位宮が最初の神武天皇のモデルであることでも証明される。
神武天皇の名乗りは「神日本磐余彦」で、
その頭文字の「神」は「チヌ」を表わしており、
「チヌ」とは「ウチヌ」すなわち沖縄にほかならないことを、
「邪馬臺国の風雲」(前出)で詳しく説明しておいた。
また壹與が天照大神であることを考えると
彼女が「霊異之児」(=『日本書紀』)だからと、
父母が「天上の事を授けよう(宗教を担当させよう)」といって、
「天」に挙げた。
という記事が参考になる。
そのとき両親は「島」に天降(あまくだ)って「日本」を産む。
どこからみても壹與の即位地は「島」だったのである。
さらにもう一つ、
沖縄から「姶良(カラ)国」「始羅国(シラギ)」への遠征が、
「神功皇后の新羅」として記録されている。
それは「稲羽の素兎(イナバのシロウサギ)の話とも複合ており、
その出発点は全て「オキの三つ子島」すなわち沖縄であったことを
〔異説・日本古国家〕(前出)で解説してある。
※出典:加治木義博 邪馬壹国大移動120頁
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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