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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
※出典:新羅概史
≪『南史』新羅伝≫
『南史』新羅伝
新羅、其先事詳北史、在百濟東南五千餘里。
其地東濱大海、南北與句麗、百濟接。
魏時曰新盧、宋時曰新羅、或曰斯羅。
其國小、不能自通使聘。
新羅、その先祖の事は北史が詳しい、百済は東南に五千余里に在る。
その地は、東は大海に沿い、北に高句麗、南に百済に接している。
魏の時代には「新盧」といい、
宋の時代には「新羅」あるいは「斯羅」と称した。
その国は小さく、自からは通使を派遣できなかった。
三国遺事、三国史記では
五鳳元年(前57年)甲子とするが、
『南史』のいう魏の時代とは三国魏(220年-265年)、
宋の時代とは南朝宋(420年-479年)の時代にあたる。
文頭に記したように干支の該当年を倍数する必要がある。
従って、甲子年は
「前57年、西暦3年、63年、123年、183年、243年、303年」にあたるが、
三国魏の時代に該当するのは「243年」である。
≪『晋書』辰韓伝≫
武帝太康元年、其王遣使獻方物。
二年復來朝貢、七年又來。
武帝の太康元年(280年)、その王は遣使を以て方物を献上した。
二年にも再び来朝して貢献、七年(286年)にもまた来た。
太康七年(286年)の朝貢記録があることから、
辰韓の六国は統一して斯盧となったが、
中国正史に「六国は十二国に細分された」とあり、
斯盧は他の辰韓諸国を統一するまでには至っていなかったのだろう。
「雞林国」
初め王は雞井で生まれた。
それ故、あるいは雞林国ともいう。
雞龍が現れたことは祥瑞である。
一説には、脱解王の時、金閼智を得た。
而して雞は林の中で鳴いたので、国号を雞林と改めた。
後世、この号を新羅と定める。
赫居世は蘿井で卵として発見されたはずだが、
唐突に鶏林国の話が登場する。
韓国の歴史学者「李鐘恒」氏は
半島南部の加那地方について
「加那人は倭人である。
その領域は、慶尚南道、慶尚北道の南部、
及び全羅南道、全羅北道の南部」で、
「鶏林国は加那から独立して新羅になった」と解説する
(『韓半島から来た倭国』)。
斯廬が慶州盆地の兄山江の上流域に存在したことは史実とされるが、
『三国遺事』を編纂した一然も、
六世紀初頭に登場する「新羅」が、
鶏林国の後裔だという事実を知っており、
伝説上の赫居世と鶏林国を結び付けるため、
唐突に文章を付加したものと推察する。
「五陵」(慶尚北道慶州市塔洞)
五陵は新羅の始祖朴赫居世王を始め、
南解王、儒理王、婆娑王など四名の王と
朴赫居世王の王后である閼英王妃の墓だと伝えられている。
五陵の南にある崇徳殿は朴赫居世王に祭事を捧げる祭殿とされ、
現在も毎年春と秋に五陵保存会が祭祀を行なっている。
ただし、墓は三国時代の古墳に似ており、
表面には何の飾りもない平凡な円形古墳であることから、
三世紀に建造されたものであれば、
朴赫居世の没年を西暦四年とする
三国史記や三国遺事の記述とは異なる。
※出典:頁
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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