2014年9月25日木曜日

山に天降った六部の人々(1)

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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪分居山谷之間爲六村≫

 一曰 閼川楊山村 

 二曰 突山高墟村 

 三曰 觜山珍支村 【或云干珍村】 

 四曰 茂山大樹村 

 五曰 金山加利村 

 六曰 明活山高耶村 

 是爲辰韓六部 高墟村長蘇伐公 望楊山麓 蘿井傍林間 有馬 

 而嘶 則往觀之 忽不見馬 只有大卵 剖之 有嬰兒出焉 則收而養之 

 及年十餘歳 岐嶷然夙成 六部人 以其生神異 推尊之 至是立爲君焉 

 辰人謂瓠爲朴 以初大卵如瓠 故以朴爲姓 居西干 辰言王

 【或云呼貴人之稱】

 《新羅建国記事中の日本地名》


 本書のこれまでの証拠だけで新羅が

 南九州発生という事実を証明するのはまだ無理である。

 そこでこの三国遺事の新羅始祖の条に、

 一体どう書いてあるかみてみよう。
 
 「辰韓の地。古(いにしえ)、六村あり。」

 として六村の名と村長の名、

 それが後世の地名と結びつけられている。

 三国遺事は13世紀後半のものであるから、

 この後世の地名はすでに不明になったものを、

 思いつく半島内の地名に合わせてあるので除外する方が、

 繁雑にならずにいい。


 (1)閼川楊山村。

   長は謁平。

   初め瓢品峯に降る。

   これを及梁部李氏の祖となす。
 
 <オセン>は沖縄読みで<ウチヌ>。

 楊は<ヤギ>で頭音を使うと<ヤヤマ>。

 <ウチヌ>、<ヤヤマ>は<沖縄>、<八重山>となる。

 (沖縄弁では<八重山>は<ヤヤマ>と発音されていを。

  <ヤエヤマ>はむしろ<ヤギヤマ>に近いが、

  これは外部の発音で、

  楊山が、どちらの意味に使われたかは不明である。)

 謁平はカピラ→カヒラ→合良→姶良(カヒラ)と続く語で、

 インド起源の<カピラ>と考えることがきる。

 これは釈迦(シャカ)の国の首都の名であり、

 琴比羅宮や兼平などという名とも深く結びついているので、

 当時の沖縄人にこの名があっても決して不思議ではない。

 瓢品は<ヒョウガン>で、「日向(ヒュウガ)」の峯に降る。

 及梁部李氏の梁は道(タウ)、

 涿(タク)の音で読めと注があるから

 <キウタポリ>(部は三韓古音<ボウ>)<キ>音のない

 沖縄では<チウタポリ>あるいは<チウチポリ>となる。

 これは琉球王子の<ウォヌウチポリーグヮ>とごく近い。


 (2)突山高墟村。

   長は蘇伐都利。

   初め兄山に降る。

   これを沙梁部郵氏の祖となす。

 <ツサヌ>と読むと邪馬臺の旁国「対蘇の(ツサヌ)国」に合う。

 これに対応する地名は同じ姶良郡に帖佐(ツサ)があり、

 やや音が変るが鹿児島市内に唐湊(トソ)。

 佐賀県に鳥栖(トス)。

 高知県以外にも多く土佐(トサ)が分布している。

 墟は<ハラ>、<カラ>とも読めるから高原、または財(タカラ)、高良。

 また<キョ>の頭音で高城、高来、多久などとも合う。

 兄山は鹿児島は川内市に可愛山(エノサン)陵があり、

 古く衣(エ)の国と呼ばれ、

 頴娃(エイ)の地名を残していることと合う。

 兄の<アニ>は、この<エノ>の方言化である。

 沙梁部鄭氏は、<サタ>、<サル>の双方に読める。

 猿(サル)田彦大神は佐多(サタ)の大神でもある。

 長の名「蘇伐都利」は伐を<キ>ると読むと<スキタリ>。

 <リ>を<イ>と発音する薩摩弁に直すと、

 スキタイ人という民族名が浮び上ってくる。

 猿田彦は白髪、赤肌、高鼻、巨眼の天狗の面で表現される。

 これは人種名とすれば非常によく合う。

 これにはも少しおまけがつく、

 仇良伐は<キュウラキ>で佐賀県の厳木(キュウラギ)。

 麻等鳥は天の日槍の妻「麻多鳥」と酷似している。


 (3)茂山大樹村。

   長は倶(一に仇に作る)礼馬。

   初め伊山(一に皆比山に作る)に降る。
 
   これを「漸梁部」また牟梁都孫氏之租となす。

 <茂>は古音<シキ>であって、

 <蜜、<頻>、<繋>と同意であり常緑多実の樒<シキミ>も、
 
 これから名がで出ている。

 <シキ>は<磯城>、<志岐>、<信貴>また<益城>などと変るが、

 聖域、境内、禁裏の意味をもち、

 いま<式場>と使う<シキ>もこの流れである。

 <大樹>は<ウジュ>、または<ウキ>であるが、

 <シキ>、<ヤマ>と連繋があるのは<ウジ>で、

 これは後者で徹底的にお話しするから、

 ここは語音の説明だけに止めておく。

 倶と仇の共通音は「ク」しかない。

 <クレマ>で伊支馬と同じ語尾になっている。

 <クレ>は高麗、呉の日本読みである。

 伊山(サヌ)イサヌは鹿児島県に伊佐郡があり、

 これも後で詳説する重要地名である。

 漸梁は清(せい)音でセンダ。千田。牟梁は牟田。


 (4)觜山珍支村。(一に賓之。また賓子。また氷之に作る)
 
 <賓>(ヒヌ)と<氷>が同音に使われるのは

 <氷>を<ヒ>と呼んだ日本の上代語の漢字仮名。

 <ヒシヤマ>は<シ>が<支>で表記された場合<キ>と入れかわるから、

 <日置>(ヒキ)、<日木山>、<表木山>(これは<氷支山>)。

 また<菱刈>という地名と姓が鹿児島県下にある。

 別伝の<ヒシ>を先にしたが<觜>は<ハシ>であって

 これも同県内に櫨山という字を当てて

 <ハシヤマ>と読む地名と姓がある。

 <珍支>は<チヌチ>と読むと<津奈木>という

 沖縄音<チヌチ>が本土音にそっくり変った地名が

 水俣市のすぐ北にある。

 長を智伯虎という。

 これは泄謀觚か、それに近い名である。

 初めて花山<カサヌ>に降る。

 これも鹿屋市に笠野原という広大な台地があり、

 また笠野の姓もある。


 (5)金山(カヌサヌ)加利村。

 <カヌサヌ>は華奴蘇奴国が志の邪馬臺旁国の一つにあり、

 一国とされる規模から考えると、

 やはり<笠野原>であって、

 同じ位置を指示しているとした方がいい。

 <加利>は<菱刈>にもみられるように、

 <カリ>という名詞が主体であって、

 その正体は後章で明らかにする。

 長を祇沱(一に只他に作る)という。

 これは<キダ><木田>または<キタ><北>だということである。

 初めて明活山払降る。

 <アカツサム>は<秋津島>という古名に近い。

 これも同じく後で、その出自がはっきりする。


 (6)明佸山高耶村。

 上半は明活山と同じもの、

 <タカヤ>は高屋山上陵のある<高屋>に最も近い。

 長を虎珍という。

 これは<川内>を<コーチ>と読むものか、

 または<小茅沼>、<小角>という日本式の名である。

 初め金剛山に降る。

 これは半島や、大阪と奈良の境にある金剛山とは限らない。

 剛は<タケ>であって殆んど全世界的な言葉で

 <山>を意味する<タケ>であり、

 <金>は<コム>、<クマ>の方言に対する

 当て字であった調査が終っている

 (加治木義博著「異説日本古代国家」)から、

 全国に分布する<金峯>、<熊野>、の山名をもつものに当る。

 鹿児島から熊本にかけても数ヶ所の候補地が現存する。

 大ぶスピードアップしてみたが量が多いので、

 このあたりで一と区切りして章を改めて総括してみょう。

 ※出典:邪馬臺国の言葉104~107頁

 新羅の歴史


《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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