2014年12月12日金曜日

第九代 伐休尼師今③王統系譜


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 第九代 伐休尼師今(在位184年-196年)

 〔新羅の古代王統系譜〕

                ┌(7)逸勢─(8)阿達羅
(1)朴赫居世─(2)南解─(3)儒理─┤ 
                └(5)婆娑─(6)祇摩

                          (13)金味鄒
                   ┌(11)助賁─┬(14)儒礼
  (南解の娘婿)     ┌太子滑正─┤     │
(4)昔脱解─仇鄒─(9)伐休─┤     │     │
             │     └(12)沽解 └─乞叔─(15)基臨
             │
             └伊買──(10)奈解──于老─(16)訖解
 〔日本風の読み方〕

 居世(コセ、イセ、イヨ)=巨勢=伊勢=伊予

 南解(ナソカイ、ナカ)=南海、中

 儒理(シュリ)=首里

 逸勢(イセ)=伊勢

 阿達羅(アタラ)=阿多国

 婆娑(ハセ)=長谷、泊瀬

 祇摩(キモ、クマ)=肝=熊

 脱解(タカ、タケ)=高、建、武

 仇都(キュウシュウ、クス)=九州、串

 伐休(ハルキ)=春木、開

 伊買(イカイ)=猪養、猪飼

 奈解(ナガ、ナカイ)=長、中井
 
 千老(ウラ)=浦

 訖解(キカイ)=鬼界

 基臨(キリ)=霧、霧島、桐


 〔古い時代の朝鮮語と日本語との関係〕

 1 居西千(カサハン) (キョセイカン)(イシカン←イニシカン)

 2 居瑟邯(カツハン) (キョヒツカン)(イシカン)

 3 尼叱今(ニャサクム)(ニシコン)  (イシカン)

 4 歯叱今(イサクム) (シシコン)  (イシカン)

 5 居世千(カヌイハン)(キョセイカン)(イシカン)

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

第九代 伐休尼師今②


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 第九代 伐休尼師今(在位184年-196年)

 (原文)

 五年春二月、百濟来攻母山城。

       命波珍飡仇道、出兵拒之。

 六年秋七月、仇道與百濟、戦於狗壌勝之。

       殺獲五百餘級。

 七年秋八月、百済襲西境圓山郷、又進圍缶谷城。

       仇道率勁騎五百撃之。

       百濟兵佯走。

       仇道追及蛙山、為百濟所敗。

       王以仇道失策、貶為缶谷城主、以薛支為左軍主。

 八年秋九月、蚩尤旗見于角亢。

 九年春正月、拜國良爲阿、述明爲一吉。

  三月、京都雪、深三尺。 

  夏五月、大水、山崩十餘所。

 十年春正月甲寅朔、日有食之。

  三月、漢祇部女一産四男一女。

  六月、倭人大饑、来求食者千餘人。

 十三年春二月、重修宮室。

  三月、旱。

  夏四月、震宮南大樹、又震金城東門。

   王薨。


 (訳文)

 五年(188年)春二月、百済が母山城を攻撃して来た。

        波珍飡の仇道に命じて出兵させ、これを阻んだ。

 六年(189年)秋七月、仇道は百済と狗壌(忠北沃川郡内の狗川か?)

        で戦い、これに勝った。

        殺し獲得した者は五百余級にのぼる。

 七年(190年)秋八月、百済が西の国境の圓山郷を襲撃、

        また、缶谷城まで進入して包囲した。

        仇道は強兵五百騎を率いてこれを攻撃。

        百済兵は敗走するふりをした。

        仇道は蛙山まで追撃したが、百済に敗れた。

        王は仇道の失策に対して缶谷城主に左遷して、

        薛支を左軍主にした。

 八年(191年)秋九月、蚩尤旗(しゆうき)〔ほうき星〕が

       〔二十八宿〕の角(かく)と亢(こう)と〔のそばに〕

        に現れた。

 九年(192年)春正月、國良を阿飡とし、述明を一吉飡とした。 

  三月、王都に大雪が降り、三尺も積もった。 

  夏五月、大水が出て、山崩れが十餘ヵ所もあった。

 十年(193年)春正月甲寅の日に当たる朔、日食があった。

  三月、漢祇部の婦人が一度に四男一女を産んだ。

  六月、倭人は大飢饉に襲われ、食糧を求め〔新羅に〕千余人にも来た。

 十三年(196年)春二月、重ねて王宮を修築。

  三月、日照りが続いた。

  夏四月、宮殿の南の大樹に雷が落ちた。

   又、金城の東門に雷が落ちた。

   王が薨去した。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年12月10日水曜日

第九代 伐休尼師今①


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 第九代 伐休尼師今(在位184年-196年)

 (原文) 

 伐休(一作發暉)尼師今立。

 姓昔。脱解王子仇鄒角干之子也。

 母姓金氏。只珍内礼夫人。

 阿達羅薨、無子、國人立之。

 王占風雲、預知水旱及年之豊儉、又知人邪正。

 人謂之聖。

 二年春正月、親祀始祖廟、大赦。

  二月、拜波珍飡仇道、一吉飡仇須兮、為左右軍主。伐召文国。

     軍主之名始於此。

 三年春正月、巡幸州郡 觀察風俗。

  夏五月、壬辰晦 日有食之。

  秋七月、南新縣進嘉禾。

 四年春三月、下令州郡。無作土木之事 以奪農時。

  冬十月、北地大雪 深一丈。


 (訳文)

 伐休(分注。發暉(はつき)とも書く)尼師今(にしきん)が即位した。

 〔伐休尼師今は〕姓が昔(せき)氏で、脱解(だつかい)王の子、

 仇鄒角干(きゅうすうかくかん)の子である。

 王母は姓が金(きん)氏で、只珍内礼(しちんないれい)夫人という。

 阿達羅(あだつら)尼師今が薨去して子がなかったので、

 国人は伐休を擁立した。

 王は風雲を占って、あらかじめ水害、旱魃、

 その年の豊穣凶作を予知でき、

 また、人の正邪を見抜いた。

 人々は伐休を聖人だと言った。

  二年(185年)春正月、王自ら始祖廟を祭祀し、大赦を行った。

   二月、波珍飡の仇道と一吉飡の仇須兮とを左右の軍主として、

      召文(しょうもん)国(慶北義城郡義城邑)を討伐させた。

      軍主の名はここから始まる。

  三年(186年)春正月、〔王は諸〕州・郡を行幸して、

      各地の〕風俗をよく観察した。

   夏五月、壬申の日にあたる晦日、日食が起こった。

   秋七月、南新縣がめでたい穀物を献上した。

  四年(187年)春三月、〔全国の〕州・郡に

      〔次のような〕命令を下した。

      農繁期に〔農民を〕土木工事に使わないようにしなさい。

   冬十月、北部の地方では、大雪が降り、深さ一丈にもなった。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 

  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年12月1日月曜日

三國史記 卷第二 新羅本紀第二 伐休尼師今


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 三國史記 卷第二 新羅本紀第二 伐休尼師今 (原文)

 伐休【一作發暉】尼師今 立 

 姓昔 脱解王子仇鄒角干之子也 母姓金氏 

 只珍内禮夫人 阿達羅薨 無子 國人立之 王占風雲 

 預知水旱及年之豊儉 又知人邪正 人謂之聖

 二年 春正月 親祀始祖廟 大赦 

  二月 拜波珍 仇道 一吉仇須兮爲左 右軍主 

      伐召文國 軍主之名始於此

 三年 春正月 巡幸州郡 觀察風俗 

  夏五月壬辰晦 日有食之 

  秋七月 南新縣進嘉禾

 四年 春三月 下令州郡 無作土木之事 以奪農時 

  冬十月 北地大雪 深一丈

 五年 春二月 百濟來攻母山城 命波珍仇道 出兵拒之

 六年 秋七月 仇道與百濟 戰於狗壤勝之 殺獲五百餘級

 七年 秋八月 百濟襲西境圓山鄕 又進圍缶谷城 

  仇道率勁騎五百撃之 百濟兵佯走 仇道追及蛙山 

  爲百濟所敗 王以仇道失策 貶爲缶谷城主 

  以薛支爲左軍主

 八年 秋九月 蚩尤旗見于角亢

 九年 春正月 拜國良爲阿 述明爲一吉 

  三月 京都雪 深三尺 

  夏五月 大水 山崩十餘所

 十年 春正月甲寅朔 日有食之 

  三月 漢祇部女 一産四男一女 六月 倭人大饑 

   來求食者千餘人

 十一年 夏六月乙巳晦 日有食之

 十三年 春二月 重修宮室 

  三月 旱 夏四月 震宮南大樹 又震金城東門 王薨


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ