2014年9月29日月曜日

古朝鮮・檀君朝鮮(2)

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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ◎三國遺事:卷第一 紀異1 古朝鮮・檀君朝鮮

 《檀君神話と古朝鮮》

 やがて時代は部族国家の成立へと向かう。

 その時代を古朝鮮と総称する。

 それには檀君朝鮮・箕子朝鮮・衛満朝鮮などがふくまれるが、

 箕子朝鮮を省く見解もある。

 天孫の檀君が阿斯達に樹立した国家を檀君朝鮮または古朝鮮と呼ぶ。

 『三国遺事』によれば、時は紀元前2333年であったという。

 むろんそれは神話でのことであるが、韓国(朝鮮)の歴史と文化を語る

 「5000年の輝ける歴史と文化」の5000年とは、

 檀君朝鮮の建国日を基点としたものである。

 檀君の古朝鮮が実在したかどうかをめぐって論争がつづいてきたが、

 紀元前800年ごろに実在したという説が強くなっている。

 つまり青銅器時代に部族国家である古朝鮮が成立したというのである。

 檀君神話は古朝鮮の実在神話的表現だとみなし、

 古朝鮮を歴史的事実だと説く。

 それに対して、

 日本ではそれを民族主義的歴史観による解釈とみなす否定的な説もある。

 わたしは歴史的事実とするにはいま一つ

 考古学的裏づけが欲しいと思うが、

 信仰的事実としてとらえている。

 そういう神話をもっていた部族が、狭義での民族がいたと思う。

 それはある特定の部族に伝わったというよりも、

 広域にわたり、少数部族を超えていた。

 さて、檀君の阿斯達はどこか。

 その位置をめぐる見解は多様である。

 かっての平壌界隈説は否定され、

 現在の中国の遼東半島や山東半島付近に求める説が強い。

 古朝鮮の存在を早くから主張していた

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)では、

 古朝鮮は青銅器文化が高い水準に到達した段階に

 形成されたと解釈している。

 遼東半島の南端で発掘された崗上墓や楼上墓の

 青銅器遺物をその論拠とする。

 その遺跡は紀元前700年から同500年の墓と推定されているが、

 その界隈つまり遼河の河口近くに王倹城があったと推定している。

 王倹城とは古朝鮮の王宮のことである。

 檀君は阿斯達を王都に定め、王倹城を築いたという。

 崗上墓や楼上墓には、50人ほどの奴隷が墓主の近く埋葬されていた。

 墓主は奴隷を50人も道連れにできるほどの力を持っていたのである。

 それから、古朝鮮は奴隷を所有する部族国家であったと解釈されている。

 一方、文献には王倹城は泪水の近くにある平壌にあった。

 と記されている。

 平壌界隈の大河は大同江しかない。

 平壌の近くに泪水があったとすれば泪水は大同江にならざるをえない。

 それについては泪水は、大陸の灤河または松花河から遼河に向かい、

 遼河からさらに大同江へと移行したことの

 地理的移行表現だという解釈もある。

 それは、神話的表現でよく使われる方法ではある。

 たとえば北扶余から東扶余へ、

 そこを逃れた朱蒙はさらに南下して高句麗を、

 高句麗からさらに南下した温祚が百済を、

 それぞれ国を興す神話に見える。
 
 それぞれ別の国を興すか、南下する、つまり移動する道が、

 天孫という神統の形をとって結ばれている。

 神話的にいえば、韓(朝鮮)半島の古代王国は天孫によって開かれた。

 天孫には王になる資格が与えられていたのである。

 耽羅国(今の済州島)の三人の始祖が三姓穴(地下の三つの穴)から

 姿を現したという神話的伝説を除けば、

 全部の始祖が降臨の形をとっている。

 その典型的な形が檀君神話である。

 短い話なので主要な部分を記載してみよう。

 「写真」石窟庵からみた日の出

     東海(日本海)からのぼる朝日を浴びた釈迦如来の優麗な微笑。

     ”静かな朝の国”の夜明けは、新しい歴史への序曲でもある。

     石窟庵は64頁参照。

 「写真」全谷里の風景

     かって日本でも流行歌に唱われた臨津江の支流。

     漢灘江の河岸段丘にある旧石器時代遺跡。

     東アジヤで最初のアシューアンタイプの握斧(ハンドアックス)

     などが出土して注目された。

 「写真」晩達人

     平壌市勝湖区晩達里洞窟遺跡出土の化石人類。

     頭骨化石から25~30歳の成人男性で、

     形質学的特徴から後期旧石器時代末の

     新人段階のものとみられている。

 「写真」有茎尖頭器と舟底形石核

     忠清北道丹陽郡スヤング遺跡出土。

     忠州ダム建設に伴い調査された

     後期旧石器時代の遺跡から出土した。

     九州の後期旧石器特有の「剥片尖頭器」や

     西北九州の細石核との関連が注目される。

 「写真」岩寺洞の深鉢形土器

     高さ40cm。尖底で、「トチの実形」を呈し、

     口縁に短斜線文帯、銅部に魚骨文風の平行屈折文がる

     典型的な櫛目文土器。下部に補修孔がある。

     岩寺洞遺跡は、ソウル市のウォーカーヒルのある

     丘陵の真向かい。漢江南岸の沖積地にあり、

     現在、一部の住居跡が復元家屋として保存公開されている。

 「写真」岩寺洞住居跡

     円形または隅丸方形の新石器時代の竪穴住居。

     床面中央に河原石で炉が設けられ、

     柱穴がみられるところから屋根が

     円錐形の土幕形式のものである。

 「写真」青銅器

     異形青銅器は本来実用的なものが、

     その機能を消失して祭器・儀器化した姿である。

     農耕儀礼と深く関わるものが多い。

     (A)青銅八珠鈴 和順・大谷里

     (B)多紐細文鏡 牙山・南城里   

     (C)馬形・虎形帯鉤 氷川・漁隠洞

     (D)防牌形銅器 牙山・南城里

     (E)霊岩・鎔范

     (F)一括性銅遺物 大田鬼亭洞

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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