2014年9月30日火曜日

箕子朝鮮・衛氏朝鮮(1)

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ◎三國遺事:卷第一 紀異1 箕子朝鮮・衛氏朝鮮

 『衛氏朝鮮

 殷の箕子が建国したとされる朝鮮の伝説的な古代国家。

 いわゆる古朝鮮の一つで、韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼ぶ。

 首都は王倹城(現在の平壌)。

 『三国志
 
 魏志書、

 『魏略
 
 逸文などにやや具体的な記述が見えるものの、

 未だに考古学的な裏付けが無く、実在性は乏しいと考えられている。

 『衛氏朝鮮
 
 衛氏朝鮮(えいしちょうせん 紀元前195年? - 紀元前108年)は、

 考古学的に証明できる朝鮮の最初の国家である。

 中国資料の記述によれば、

 燕の亡命者である満(衛満

 『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。

 姓を「衛」と記すのは(『三国志』以降)が

 今の朝鮮半島北部に立てたとされる。

 『史記
 
 によれば、朝鮮は燕の全盛期その配下に入っていたが、

 燕が秦に滅ぼされて後は国外の属国という状態にあった。

 前漢の高祖の時代、燕王盧綰が漢に背いて匈奴に亡命すると、

 満(衛満)も燕から亡命し、千人余りの徒党と共に朝鮮に入った。

 そこで、朝鮮の非漢人系住民や燕・斉の亡命者などを取り込み、

 王険城(平壌)を首都として王位に就いた。

 その後は独立国家として振る舞い、朝鮮周辺に覇を唱えたが、

 孫の右渠の代に、漢の意のままにならないことが武帝の逆鱗に触れ、

 紀元前109年、紀元前108年に遠征が行われ、衛氏朝鮮は滅ぼされた。

 その故地には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡が置かれ、

 漢の直轄地になったという。

 なお、『三国志』『魏略』及び『後漢書
 
 には、

 前漢建国当時の朝鮮は箕子の子孫が代々朝鮮侯として治めていたが、

 後に朝鮮王を僭称するようになったこと、

 箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われたこと、

 箕準は残兵を率いて南方の馬韓の地を攻略し、

 そこで韓王となったという新たな記述が付け加わっている

 (→箕子朝鮮)。

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史


《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年9月29日月曜日

古朝鮮・檀君朝鮮(3)

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ◎三國遺事:卷第一 紀異1 古朝鮮・檀君朝鮮

 《檀君神話》

 昔、天帝の桓因の庶子に桓雄という神がいた。
 
 桓雄はいつも地上の人間界におもいをはせていたが、

 それはいつしか父の桓因にも通じていた。

 桓因は天空から地上の三危太伯を見下ろしながら、

 人間たちに救いの手をさしのべることにした。

 そこで桓雄に天符印を三個授けて

 天降って人間界を治めてみよと命じた。
 
 桓雄は3000の供を率い、

 太伯山の頂に祀ってる神壇樹という神木に天降り、

 そこを神市と名づけた。

 それで桓雄天王というようになった。(中略)

 そのとき、同じ洞窟のなかに一匹の熊と虎が住んでいて、箕子朝鮮

 桓雄に願い事があると申し出た。

 自分たちをどうか人間の姿にしてほしいという願いを聞いて、

 桓雄は神艾(もぐさ)一束と蒜(にんにく)20個を与えて、

 「これを食べながら100日間日光をさけておこもりをせよ」

 と告げた。

 その日から21日目に熊は女の姿になり、虎は人間になれなかった。

 女の姿になった熊女は神壇樹に詣でて、子を授けてほしいと祈願すると、

 桓雄は熊女と情を交わし、熊女は男の子を生んだ。

 その子を檀君王倹と名づけた。
 
 のちに、唐の高(堯)が即位して50年の庚寅に

 平壌に都邑を開き国号を朝鮮(チョソン)と名づけた。

 その後、都邑を白岳山の阿斯達に移し、

 その地を弓(方の字も用いる)忽山または今旅達といい、

 国を治めて150年栄えた。

 中国の周の虎(武)の王が即位して己卯年に、箕子を朝鮮に奉じた。

 檀君は王位を箕子にゆずった。(略)

 この神話で注目すべきところは、熊を祖神とするトーテム信仰と、

 桓雄が天降った神樹の神檀樹である。

 檀君の母方は熊ということになっている。

 神檀樹は生命樹や宇宙樹のことであり、

 その信仰は今日でも広く分布している。

 三韓の馬韓に天君という祭天儀式が行われ、

 そのとき蘇塗と呼ぶ大木を立てて、

 そこに鈴や鼓をかけて鬼神を祀った(『魏志』馬韓伝)。

 このように、樹木には万物を生成する神力・霊力があるという信仰が

 古代から伝わっていた。

 さて、このような神話をもって建国された古朝鮮は、

 紀元前100年ごろまでつづいたという。

 その間、箕子朝鮮・衛満朝鮮などが

 どのような形で檀君朝鮮とかかわっていたかは、

 よくわかっていない。

 『漢書』地理誌によれば、

 箕子八條教という法律があり、そのうちの三條教が記されている。

 (一)人を殺めた者は殺す。
 
 (二)人を傷つけた者は穀物によってつぐなう。

 (三)他人の物を盗んだ者は奴隷にされ、

    それを逃げれたければ、50万銭を支払う。

 このような厳しい法律は古朝鮮だけにとどまらず、

 扶余や辰国などでもみられた。

 「写真」白頭山
        
     韓(朝鮮)半島の北端にある標高2744mの最も高い山で、

     この民族の象徴的な存在でもある。

     古くから神秘性の高い山で、

     檀君の生誕地や建国神話の舞台にもなった。

     中国では長白山と呼ぶ。頂上に天池がある。

 「写真」暫城檀

     江華島
     
     摩尼山の山頂にある方形の祭壇。

     檀君が天神への祭りを行なったという。

 「写真」摩尼山開天祭

     10月3日は檀君の古朝鮮建国の日に定められている。

     その日、暫城檀で祭天儀式を行い、八仙女の舞が献舞される。

 「写真」東明(朱蒙)王陵
     
     高句麗が平壌に遷都した427年前後に、

     平壌に移葬された高句麗の始祖・東明(朱蒙)の王陵。

     勅願寺の定陵寺が前方に建てられた。

 出典:河出書房新社 図説・韓国の歴史:14~15頁

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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古朝鮮・檀君朝鮮(2)

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ◎三國遺事:卷第一 紀異1 古朝鮮・檀君朝鮮

 《檀君神話と古朝鮮》

 やがて時代は部族国家の成立へと向かう。

 その時代を古朝鮮と総称する。

 それには檀君朝鮮・箕子朝鮮・衛満朝鮮などがふくまれるが、

 箕子朝鮮を省く見解もある。

 天孫の檀君が阿斯達に樹立した国家を檀君朝鮮または古朝鮮と呼ぶ。

 『三国遺事』によれば、時は紀元前2333年であったという。

 むろんそれは神話でのことであるが、韓国(朝鮮)の歴史と文化を語る

 「5000年の輝ける歴史と文化」の5000年とは、

 檀君朝鮮の建国日を基点としたものである。

 檀君の古朝鮮が実在したかどうかをめぐって論争がつづいてきたが、

 紀元前800年ごろに実在したという説が強くなっている。

 つまり青銅器時代に部族国家である古朝鮮が成立したというのである。

 檀君神話は古朝鮮の実在神話的表現だとみなし、

 古朝鮮を歴史的事実だと説く。

 それに対して、

 日本ではそれを民族主義的歴史観による解釈とみなす否定的な説もある。

 わたしは歴史的事実とするにはいま一つ

 考古学的裏づけが欲しいと思うが、

 信仰的事実としてとらえている。

 そういう神話をもっていた部族が、狭義での民族がいたと思う。

 それはある特定の部族に伝わったというよりも、

 広域にわたり、少数部族を超えていた。

 さて、檀君の阿斯達はどこか。

 その位置をめぐる見解は多様である。

 かっての平壌界隈説は否定され、

 現在の中国の遼東半島や山東半島付近に求める説が強い。

 古朝鮮の存在を早くから主張していた

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)では、

 古朝鮮は青銅器文化が高い水準に到達した段階に

 形成されたと解釈している。

 遼東半島の南端で発掘された崗上墓や楼上墓の

 青銅器遺物をその論拠とする。

 その遺跡は紀元前700年から同500年の墓と推定されているが、

 その界隈つまり遼河の河口近くに王倹城があったと推定している。

 王倹城とは古朝鮮の王宮のことである。

 檀君は阿斯達を王都に定め、王倹城を築いたという。

 崗上墓や楼上墓には、50人ほどの奴隷が墓主の近く埋葬されていた。

 墓主は奴隷を50人も道連れにできるほどの力を持っていたのである。

 それから、古朝鮮は奴隷を所有する部族国家であったと解釈されている。

 一方、文献には王倹城は泪水の近くにある平壌にあった。

 と記されている。

 平壌界隈の大河は大同江しかない。

 平壌の近くに泪水があったとすれば泪水は大同江にならざるをえない。

 それについては泪水は、大陸の灤河または松花河から遼河に向かい、

 遼河からさらに大同江へと移行したことの

 地理的移行表現だという解釈もある。

 それは、神話的表現でよく使われる方法ではある。

 たとえば北扶余から東扶余へ、

 そこを逃れた朱蒙はさらに南下して高句麗を、

 高句麗からさらに南下した温祚が百済を、

 それぞれ国を興す神話に見える。
 
 それぞれ別の国を興すか、南下する、つまり移動する道が、

 天孫という神統の形をとって結ばれている。

 神話的にいえば、韓(朝鮮)半島の古代王国は天孫によって開かれた。

 天孫には王になる資格が与えられていたのである。

 耽羅国(今の済州島)の三人の始祖が三姓穴(地下の三つの穴)から

 姿を現したという神話的伝説を除けば、

 全部の始祖が降臨の形をとっている。

 その典型的な形が檀君神話である。

 短い話なので主要な部分を記載してみよう。

 「写真」石窟庵からみた日の出

     東海(日本海)からのぼる朝日を浴びた釈迦如来の優麗な微笑。

     ”静かな朝の国”の夜明けは、新しい歴史への序曲でもある。

     石窟庵は64頁参照。

 「写真」全谷里の風景

     かって日本でも流行歌に唱われた臨津江の支流。

     漢灘江の河岸段丘にある旧石器時代遺跡。

     東アジヤで最初のアシューアンタイプの握斧(ハンドアックス)

     などが出土して注目された。

 「写真」晩達人

     平壌市勝湖区晩達里洞窟遺跡出土の化石人類。

     頭骨化石から25~30歳の成人男性で、

     形質学的特徴から後期旧石器時代末の

     新人段階のものとみられている。

 「写真」有茎尖頭器と舟底形石核

     忠清北道丹陽郡スヤング遺跡出土。

     忠州ダム建設に伴い調査された

     後期旧石器時代の遺跡から出土した。

     九州の後期旧石器特有の「剥片尖頭器」や

     西北九州の細石核との関連が注目される。

 「写真」岩寺洞の深鉢形土器

     高さ40cm。尖底で、「トチの実形」を呈し、

     口縁に短斜線文帯、銅部に魚骨文風の平行屈折文がる

     典型的な櫛目文土器。下部に補修孔がある。

     岩寺洞遺跡は、ソウル市のウォーカーヒルのある

     丘陵の真向かい。漢江南岸の沖積地にあり、

     現在、一部の住居跡が復元家屋として保存公開されている。

 「写真」岩寺洞住居跡

     円形または隅丸方形の新石器時代の竪穴住居。

     床面中央に河原石で炉が設けられ、

     柱穴がみられるところから屋根が

     円錐形の土幕形式のものである。

 「写真」青銅器

     異形青銅器は本来実用的なものが、

     その機能を消失して祭器・儀器化した姿である。

     農耕儀礼と深く関わるものが多い。

     (A)青銅八珠鈴 和順・大谷里

     (B)多紐細文鏡 牙山・南城里   

     (C)馬形・虎形帯鉤 氷川・漁隠洞

     (D)防牌形銅器 牙山・南城里

     (E)霊岩・鎔范

     (F)一括性銅遺物 大田鬼亭洞

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
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古朝鮮・檀君朝鮮(1)

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 《参考:年表・資料》

 ◎三國遺事:卷第一 紀異1 古朝鮮・檀君朝鮮

 『古朝鮮(こちょうせん、コジョソン、고조선)とは、
 
 漢王朝武帝による漢四郡設置(紀元前108年)以前の

 古代朝鮮国家の総称で、

 後代の李氏朝鮮と対応して使用される。

 具体的には、

 檀君朝鮮(王倹朝鮮)・
 
 箕子朝鮮

 衛氏朝鮮(衛満朝鮮)の
 
 3国家を指すが、前二者は伝説的存在で、

 実証的な歴史学においては、衛氏朝鮮のみを指すことが多い。

 また、李氏朝鮮がまだ存在しない13世紀に著された

 『三国遺事』の「古朝鮮」は

 衛氏朝鮮・箕子朝鮮に対応する形で檀君朝鮮を指しており、

 現在の韓国でも単純に古朝鮮と呼ぶ場合は、

 この檀君朝鮮を指していることが多い。

 ただし、朝鮮で自国名を「朝鮮」と称するのは、高麗以降のことである。

 檀君朝鮮
 
 檀君朝鮮(だんくんちょうせん)は、

 檀君王倹が紀元前2333年に開いたとされる伝説の国の名

 高麗時代の一然著『三国遺事』(1280年代成立)に

 魏書からの引用として見えるのが文献上の初出である。

 ただし、陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』など、

 現存する魏書には該当する記述がない。

 また『三国遺事』以前の古書・古記録によっても

 実在を立証できないため、

 檀君神話を自国の民族主義史観の拠り所としている

 韓国・北朝鮮を除いては歴史的存在と見なされていない。

 なお、偽書とされる『桓檀古記』、『揆園史話』には

 『三国遺事』とは異なる記述がなされている。

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史


《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

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 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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三國遺事:古朝鮮【王儉朝鮮】

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 《参考:年表・資料》

 ◎三國遺事:卷第一 紀異1 古朝鮮【王儉朝鮮】

 (原文)

  魏書云 

  乃往二千載 有壇君王儉 

  立都阿斯達

  【經云無葉山 亦云白岳 在白州地 或云在開城東 今白岳宮是】 

  開國號朝鮮 與高同時

 (訳文)

 『魏書』に云う。 

 すなわち二千載の往(いにし)え、壇君王儉(だんくんおうけん)有り、

 都を阿斯達

 【經に無葉山と云い、また白岳と云う。

  白州の地に在り。あるいは開城の東に在りと云う。

  今の白岳宮これなり。】に立て、

 國を開き朝鮮と號す。

 高(=堯/三皇五帝のひとり。)と同じ時なり。


 (原文)

  古記云

  昔有桓因【謂帝釋也】 庶子桓雄

  數意天下 貪求人世 

  父知子意 下視三危太伯 可以弘益人間

  乃授天符印三箇 遣往理之 

  雄率徒三千 降於太伯山頂【即太伯今妙香山】 神壇樹下

  謂之神市 是謂桓雄天王也

  將風伯雨師雲師 而主穀主命主病主刑主善惡

  凡主人間三百六十餘事 在世理化

 (訳文)

  『古記』に云う。

  昔、桓因【帝釋を謂う。】が庶子の桓雄有り、

  數(たびたび)天下を意(おも)い、人の世を貪求す。

  父、子の意を知り、下に三危太伯

  (さんきたいはく/三危はみっつの高い山。

  太伯はそのひとつで、下に見える太伯山のこと。)を視るに、

  もって弘(ひろ)く人間を益すべきなり。

  すなわち天符印(下に見える風伯・雨師・雲師の三神の印綬)

  三箇を授け、往(ゆ)きてこれを理(おさ)めしむ。

  雄、徒三千を率(ひき)い、

  太伯山の頂【即ち太伯は今の妙香山なり】の

  神壇樹の下(もと)に降(くだ)る。 
 
  これを神市と謂い、これを桓雄天王と謂う。

  風伯・雨師・雲師を將(ひき)い、穀を主(つかさど)り、

  命を主(つかさど)り、病を主(つかさど)り、

  刑を主(つかさど)り、善惡を主(つかさど)り、

  凡(すべ)て人間の三百六十餘事を主(つかさど)り、世に理化あり。


 (原文)

  時有一熊・一虎 同穴而居

  常祈于神雄 願化爲人

  時神遺靈艾一・蒜二十枚曰 爾輩食之 不見日光百日 便得人形

  熊・虎得而食之 忌三七日

  熊得女身 虎不能忌 而不得人身

  熊女者無與爲婚 故毎於壇樹下 呪願有孕

  雄乃假化而婚之 孕生子

  號曰壇君王儉

 (訳文)

  時に一熊・一虎有り、穴を同じうして居す。

  常に神雄に祈り、化して人と爲るを願う。

  時に、神、靈艾一・蒜二十枚を遺わし曰く、

  「爾輩(なんじら)これを食い、百日日の光を見ざれば、

   すなわち人の形を得るべし」と。 

  熊・虎、得てこれを食い、忌むこと三七(=二十一)日。

  熊は女身を得るも、虎は忌むこと能(あたわ)ずして人身を得ず。

  熊女は婚を爲す無く、

  故に毎(つね)に壇樹の下に孕(はらむ)こと有らんと呪願す。

  雄、すなわち假化してこれと婚し、孕みて子を生む。

  號(なづ)けて壇君王儉と曰う。


 (原文)

  以唐高即位五十年庚寅

  【唐高即位元年戊辰 則五十年丁巳 非庚寅也 疑其未實】

  都平壤城【今西京】 始稱朝鮮

  又移都於白岳山阿斯達

  又名弓【一作方】忽山

  又今彌達 

  御國一千五百年

 (訳文)

  もって唐高(=堯/三皇五帝のひとり。)の

  即位五十年庚寅(かのえ・とら)

  【唐高の即位元年は戊辰(つちのえ・たつ)。

   すなわち五十年は丁巳(ひのと・み)なり。

   庚寅(かのえ・とら)に非(あら)ず。

   その未だ實ならざるを疑う】、

  平壤城【今の西京なり】に都し、始めて朝鮮を稱す。

  また都を白岳山の阿斯達に移す。

  またの名を弓【あるいは「方」に作る】忽山、または今彌達という。

  國を御(おさ)めること一千五百年。


 (原文)

 周虎王即位己卯

 封箕子於朝鮮 

 壇君乃移藏唐京 後還隱於阿斯達 爲山神

 壽一千九百八歳

 (訳文)

 周の虎王(周の「武王」のこと。

 高麗の二代・惠宋帝の諱が「武」であったため、

 武の字の使用を避けて「虎」と書いたもの)の

 即位己卯(つちのと・う)。

 箕子(きし/末尾の註1を参照)を朝鮮に封ず。

 壇君、すなわち藏唐京に移り、後に阿斯達に還り隱れ、山神と爲る。

 壽、一千九百八歳。


 (原文)

  唐裵矩傳云 

  高麗本孤竹國【今海州】

  周以封箕子爲朝鮮 漢分置三郡

  謂玄菟-樂浪-帶方【北帶方】

  通典亦同此説【漢書則眞臨樂玄四郡 今云三郡 名又不同 何耶】

 (訳文)

  唐の『裵矩傳』に云う。

  高麗はもと孤竹國【今の海州】なり。

  周の箕子を封ずるをもって朝鮮と爲し、漢は分かちて三郡を置く。

  玄菟(げんと)・樂浪(らくろう)・帶方(たいほう)

 【北帶方】と謂う。

 『通典』、

 またこの説に同じ

 【『漢書』はすなわち眞・臨・樂・玄の四郡。

  今は三郡と云う。

  名、また同じからず。何(いか)にや】。


  註1:箕子(きし)/殷(商)の公子。

  殷王朝の最後の皇帝紂王(ちゅうおう)につかえ、

  その乱行(酒池肉林)をいさめたが聞き入れられず、

  自ら狂人をよそおい奴婢となって身を隠したが

  紂王に見つかり幽閉される。

  やがてのちに殷を滅ぼした周の武王に助け出された。

  周の武王は箕子に殷が滅びた理由をたずねたが、

  箕子はその問いには直接答えず、政治のあるべき姿を語った。

  武王は「箕子に殷が滅びた理由をたずねても、

  彼がその王の悪口をいうわけがない。

  箕子はつらい思いをしたであろう。

  このようなことをたずねた余が愚かであった」と悔いて、

  箕子を朝鮮に封じたという。

  これがいわゆる「箕子朝鮮」である。

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
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 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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 高床式神殿
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三國遺事:「序文」

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 《参考:年表・資料》

 ◎三國遺事:卷第一 紀異1 「序文」

 (原文)

 敍曰

 大抵古之聖人 方其禮樂興邦 仁義設敎 則怪力亂神 在所不語

 然而帝王之將興也 膺符命 受圖 必有以異於人者 

 然後能乘大變 握大器 成大業也

 故河出圖 洛出書 而聖人作

 以至虹繞神母而誕羲

 龍感女登而生炎

 皇娥遊窮桑之野

 有神童自稱白帝子

 交通而生小昊 

 簡狄呑卵而生契 

 姜履跡而生 

 胎孕十四月而生堯 

 龍交大澤而生沛公 

 自此而降 

 豈可殫記 

 然則三國之始祖 

 皆發乎神異 

 何足怪哉 

 此紀異之所以漸諸篇也 

 意在斯焉

 (訳文)

 敍に曰く。 

 大抵(およそ)古(いにしえ)の聖人、

 方(まさ)にその禮樂に邦(くに)を興(おこ)し、

 仁義に敎を設け、すなわち怪力・亂神の在るを語らず。

 然(しか)るに帝王の將(まさ)に興(おこ)らんとするや、

 符命(ふめい)を膺(う)け、圖(ずろく)を受け、

 必ず人に異なる者有り。

 然る後に能く大變に乘じ、大器を握し、大業を成す。

 故に河(=黄河)は圖を出し、

 洛(=洛水)は書を出して聖人を作(な)す

 (伝説に伏羲氏のとき黄河から図が出、

  夏王朝の禹王のとき洛水から亀の背に書かれた文書が出たという)。

 もって、虹、神母に繞(まと)いて羲

 (ぎ/三皇五帝のひとり、伏羲(フクギ)のこと。)誕(うま)れ、

 龍、女登

 (じょとう/『史記』三皇本紀に見える。皇五帝のひとり炎帝の母。)

 に感じて炎(えん/三皇五帝のひとり炎帝神農氏のこと。)を生み、

 皇娥(こうが/三皇五帝のひとり小昊(ショウコウ)の母。)は

 窮桑(きゅうそう)の野に遊ぶに、自ら白帝の子と稱す神童あり、

 交り通じて小昊(しょうこう/三皇五帝のひとり。)を生み、

 簡狄(かんてき/水浴びをしていたとき、

 ツバメが卵を落としたのを見て、その卵をのんだところ、

 身ごもって契を生んだという。)は卵を呑みて

 契(せつ/商(殷)王朝の始祖。)を生み、

 姜(きょうげん/郊外の草原で巨人の足跡を踏み棄を懐妊した。)は

 跡を履(ふ)みて(き/后稷(コウショク)ともいう周の始祖。)を生み、

 胎孕十四月にして堯(ぎょう/五帝のひとり。

 妊娠十四ヵ月にして誕生したという。)を生み、

 龍、大澤に交わりて沛公

 (はいこう/前漢の高祖劉邦のこと。赤龍の子という伝説あり。)

 を生むに至る。 

 これより降(くだ)るに、

 豈(あ)に記し殫(つく)す可(べ)けんや。

 然してすなわち三國の始祖は皆神異を發す。

 何ぞ怪しむに足らんや。

 これ「紀異」をもって諸篇の漸(はじめ)とするところなり。

 意、これに在り。

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

『三国遺事』とは

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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ◎『三国遺事(さんごくいじ)』とは

 13世紀末に

 高麗の高僧一然

 (1206年 - 1289年)によって書かれた私撰の史書。

 大部分の撰述の時期は1270年代後半から1280年代中頃であり、

 一然の没後に弟子の無極(宝鑑国師の混丘)が

 補筆・署名し、刊行されたと見られる。

 朝鮮半島における現存最古の史書である

 『三国史記』(1145年完成)に次ぐ古文献ではあるが、

 由来の怪しい古書を引用するなど、史書としての問題点は少なくない。

 しかし、三国時代及びそれ以前の朝鮮半島の歴史を

 記した資料は極めて乏しいということもあって、

 『三国史記』と並んで朝鮮半島古代史の基本文献として扱われている。

 また、『三国史記』が名だけを留めて収めなかった

 郷歌(ヒャンガ)を14首伝えており、言語学資料としての価値も高い。

 「解説」

 『三国遺事』は13世紀末、

 丁度元寇当時の高麗の僧、無極一然の著書で、

 『三国史記』を補うような形をしており、

 古事記と似た働きをもっている。

 《どちらが祖先か日鮮両語》

 『三国遺事』は、朝鮮の坊さんが1227年に、

 朝鮮に伝わる伝説、逸話などを集めて記録したものである。

 だから新羅建国からは

 少くとも1000年以上経過しているとみなけれはならない。

 それにもかかわらず、いま謎ときができるだけの、

 しつかりした中身を伝えていたのである。

 著者、僧一然氏は、殆んど700年目にあたる今、

 彼の仕事がこんなにも認められて、

 泉下で大いに満足していると思うのである。

 こうして、作為なく、収録者も話者も真相を知らぬままに話し、

 書き綴ったものが、

 新羅神話とは、

 日本神話と同じ天孫降臨の変型したものであることを証明した。

 新羅の始祖は半島でなく鹿児島に住み、

 その名も赫居(カゴ)之王と名乗っていたのである。

 とすれば後世朝鮮半島に住み、

 新羅の国を発展させた人々は血液も言語も、

 日本人と共通であったはずである。

 日鮮同祖論はここで新らしい大きな証拠によって、

 その正しさが証明されたことになる。

 ただ従来は半島から日本列島へ、

 人々が移り住んだと全く反対に考えられてきた。

 日鮮語の類似は、

 朝鮮語が日本へ入ったためだ、とされてきた。

 だが、

 どうやらそれは完全に間違っていて、

 正反対に日本から半島へ流入したとせねばならないようである。

 それを確かめるのは、別に難事でも何でもない。

 日本人は、すでにみたように、

 混成民族であることがはっきりしているから、

 日本語もまた、海外の言語が混入しているはずである。

 朝鮮語は、

 三韓が九州から移動したのであれは、

 共通語があって当然だから反対側の国々、

 南西諸島からさらに南西にひろがるマレー語圏のことばと、

 日本のことばを比較すれば、

 日本を中心にして、どちらからどちらへ移動したか、

 かなりの精度でつかむことが可能なはずである。

 このことはまた当然、

 これまで日本式発音だけで検討してきた官名などが、

 どういう構造になっているかを確かめるのにも役立つはずである。

 また日本語でとけない名詞。

 <ヤマト>とか<アスカ>とか邪馬臺とか狗奴国とかの正体を、

 明らかにする手がかりが得られるかもしれない。

 沖縄の向うにはすぐ台湾があるが、

 その土着の言語はマレー語圏に属する。

 マレー語には<クリ>という発音で<毛>を意味する語がある。

 <粟野>はマレー語とすれば「毛の」を意味し、

 霧島の山ふところにあって

 毛人の国にさらに有力な証拠を加えることができる。

 まず大きく網をひろげて、さらに飛躍した証拠群を捉えるためにも、

 マレー語は重要な対象であり、それは大きな収穫を約束してくれている。

 出典:加治木義博 邪馬臺国の言葉:111~112頁
 邪馬臺国の言葉:『言語復原史学会:加治木義博』


《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ