2014年9月23日火曜日

居西干(5)

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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪號居西干≫

 《『女王の所都=邪馬壹国』は隼人町一帯》

 鹿児島神宮が鎮座する字の名は「内(うち)」だから、

 ウチナ=沖縄からきた遷都を物語っている。

 大御神=卑弥呼を祭る伊勢神宮のある宇治山田の宇治は、

 このウチに対する当て字でウチと発音しなければいけない。

 これも卑引呼が鹿児島神宮の鎮座地と姫木山にいた証拠である。

 では壹與は卑弥呼の死後、女王になって何処に都を置いたのか?

 これがヤマタイ論争の究極の主題

 『女王の所都=邪馬壹国の所在』 なのである。

 『三国史記』にある壹與の「新羅本紀」の名乗りは赫居世だが、

 この居世は、重箱読みされたイセに対する当て字の一つであり、

 居西干=イセカンと号したとあるから

 「伊勢神=伊勢の大神」が彼女の名乗りで、

 卑弥呼の次の天照大神になったことが判る。

 そして彼女は徐那伐=ヨナバルを

 国号にしていたという記事があるから、

 沖縄の与那原で即位している。

 沖縄人だから、やはりウチナで、

 鹿児島神宮も伊勢神宮もどちらも彼女を祭っている。

 鹿児島神宮には彼女が神功皇后として

 鹿児島にやってきたときの遺物である

 「潮干るの珠、潮満つの珠」が神宝の中にあり、

 私は戦後すぐそれを計測し、写真に撮らせて頂いた。

 だから、

 壹與は間違いなく政変後は鹿児島神宮が鎮座する「内(うち)」に居た。

 張政が書いた『 女王の所都=邪馬壹国』の中心=皇居は、

 時間帯からみて、ここ以外にはあり得ないのである。

 ※出典:大学院講義録40・28頁

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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