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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
≪第二代・南解次次雄(在位 4-24年)≫
『三国史記』新羅本紀
(原文)
南解次次雄立(次次雄、或云慈充。
金大問云、方言謂巫也。
世人以巫事鬼神、尚祭祀。
故畏敬之。
遂稱尊長者為慈充)。
赫居世嫡子也。
身長大、性沈厚、多智略。母閼英夫人。
妃雲帝夫人、一云阿婁夫人。
(訳文)
南解次次雄が立った。(次次雄、あるいは慈充という。
金大問が言うには、方言で巫のことだという。
世人は巫を以て鬼神に仕え、祭祀を尊重する故に、これを畏敬する。
遂に尊い首長を慈充と称するようになる)。
赫居世の嫡子である。
背が高く大柄で、性格は沈厚にして智略多し。
母は閼英夫人。
妃は雲帝夫人、一説には阿婁夫人という。
(原文)
継父即位稱元。
論曰:人君即位、踰年稱元。
其法詳於春秋。
此先王不刊、之典也。
伊訓曰:成湯既沒。太甲元年。
正義曰:成湯既沒、其歳即、太甲元年。
然孟子曰:湯崩。太丁未立。
外丙二年、仲壬四年。
則疑若尚書之脱簡。
而正義之誤説也。
(訳文)
父の跡を継いで即位し、元年を称した。
論者曰く「人君が即位すれば、年を越してから元年と称する。
その法は春秋に詳しい。
これは先王より不変の典範なり。
伊訓に曰く「商の成湯が没すると太甲元年とした」。
正義に曰く「成湯が没した、その歳が即ち太甲元年である」。
然れども孟子に曰く「湯が崩御。太丁は未だ立たず。
外丙は二年、仲壬は四年。
これは尚書に木簡の一片が脱落していることを疑わせるが、
正義では、これを誤って解説したものである。
(原文)
或曰:古者、人君即位、或踰月稱元年、
或踰年而称元年。
踰月而稱元年者、成湯既沒、
太甲元年、是也。
孟子云、太丁未立者。
謂太丁未立而死也。
外丙二年、仲壬四年者、皆謂太丁之子太甲二兄、
或生二年、或生四年而死。
太甲所以得継湯耳、
史記便謂。此仲壬、外丙為二君、誤也。
由前、則以先君終年、即位稱元。
非是、
由後、則可謂得商人之禮者矣。
(訳文)
あるいは曰く「古代は、人君が即位すると、翌月を元年と称した、
あるいは翌年を元年と称した」。
翌月を元年と称したのは、成湯が没し、
(大甲が即位したので太甲元年とした)太甲元年とは、これなり。
孟子に言う「太丁は未だ立たずとは、
太丁は立たないまま死去したことをいう」。
外丙二年、仲壬四年とは、どちらも太丁の子、太甲の二人の兄であり、
あるいは生誕二年、あるいは生誕四年で死んだことをいう。
太甲はそれ故に湯の王位を継承できたのであり、
史記がこの仲壬と外丙を二君と言うのは、誤りである。
前者によれば、先君の終末の年に即位し、元年を称したことになるが、
そんなはずがない。
後者によれば、商人の礼法に適ったと言うべきであろう。
(原文)
元年秋七月、樂浪兵至、圍金城數重。
王謂左右曰:二聖棄國、
孤以國人推戴、謬居於位。
危懼若渉川水。今鄰國来侵。
是孤之不德也。爲之若何?
左右對曰:
賊幸我有喪、妄以兵来。
天必不祐。不足畏也。
賊俄而退歸。
(訳文)
元年(4年)秋7月、楽浪の兵が到来、金城を幾重にも包囲した。
王の左右の重臣が曰く「二聖は国を去り(死去)、
余は国人に推戴され、誤って位に就いた。
危惧は河川を渡るがごとし。今、隣国が来寇する。
これは余の不徳である。これを如何に為すべきか?」
左右の重臣が返答した。
「賊は我らの服喪を幸とし、妄りに兵を寄こした。
天の加護を得られないことは必定です。恐れるに足りません」。
賊は俄かに兵を退いて帰った。
(原文)
五年春正月、王聞脱解之賢、
以長女妻之。
(訳文)
五年(8年)春正月、王は脱解が賢者であると聞き、
長女を彼の妻にした。
(原文)
七年秋七月、以脱解為大輔、委以軍國政事。
(訳文)
七年(10年)秋七月、脱解を大輔と為し、軍務と国政の責任を委ねた。
(原文)
十一年、倭人遣兵船百餘艘、掠海邊民戸。
發六部勁兵以禦之。
樂浪謂内虚、来攻金城、甚急。
夜有流星、墜於賊榮。
衆懼而退、屯於閼川之上、
造石堆二十而去。
六部兵一千人追之。
自吐含山東至閼川、
見石堆、知賊衆乃止。
(訳文)
十一年(14年)、倭人が戦船を百艘余り派遣して海辺の民家を掠奪した。
六部の強兵を出発させてこれを防御した。
楽浪は内部の虚を突くと言って急遽、金城に侵攻して来た。
夜に流星が現れ、賊の陣営に撃墜。
軍勢は驚愕して退散、閼川の岸上に屯営し、
石を20個ほど積み上げて退去した。
六部の兵士一千人がこれを追撃した。
吐含山の東から閼川に到着したが、
石積みを見て、賊の軍勢が待ち構えていると思い、追撃を中止した。
(原文)
十六年春二月、北溟人耕田、得濊王印。
獻之。
(訳文)
十六年(19年)春二月、北溟の人が田を耕作中に濊王の印を拾得し、
これを献上した。
(原文)
二十一年秋九月、蝗。王薨。葬蛇陵園内。
(訳文)
二十一年(24年)秋九月、蝗が発生。王が薨じた。蛇陵の園内に葬った。
※出典:新羅の歴史
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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