2014年10月3日金曜日

『三国史記』新羅本紀:第二代・南解次次雄

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪第二代・南解次次雄(在位 4-24年)≫

 『三国史記』新羅本紀

 (原文)

 南解次次雄立(次次雄、或云慈充。

 金大問云、方言謂巫也。

 世人以巫事鬼神、尚祭祀。

 故畏敬之。

 遂稱尊長者為慈充)。

 赫居世嫡子也。

 身長大、性沈厚、多智略。母閼英夫人。

 妃雲帝夫人、一云阿婁夫人。

 (訳文)

 南解次次雄が立った。(次次雄、あるいは慈充という。

 金大問が言うには、方言で巫のことだという。

 世人は巫を以て鬼神に仕え、祭祀を尊重する故に、これを畏敬する。

 遂に尊い首長を慈充と称するようになる)。

 赫居世の嫡子である。

 背が高く大柄で、性格は沈厚にして智略多し。

 母は閼英夫人。

 妃は雲帝夫人、一説には阿婁夫人という。


 (原文)

 継父即位稱元。

 論曰:人君即位、踰年稱元。

 其法詳於春秋。

 此先王不刊、之典也。

 伊訓曰:成湯既沒。太甲元年。

 正義曰:成湯既沒、其歳即、太甲元年。

 然孟子曰:湯崩。太丁未立。

 外丙二年、仲壬四年。

 則疑若尚書之脱簡。

 而正義之誤説也。

 (訳文)

 父の跡を継いで即位し、元年を称した。

 論者曰く「人君が即位すれば、年を越してから元年と称する。

 その法は春秋に詳しい。

 これは先王より不変の典範なり。

 伊訓に曰く「商の成湯が没すると太甲元年とした」。

 正義に曰く「成湯が没した、その歳が即ち太甲元年である」。

 然れども孟子に曰く「湯が崩御。太丁は未だ立たず。

 外丙は二年、仲壬は四年。

 これは尚書に木簡の一片が脱落していることを疑わせるが、

 正義では、これを誤って解説したものである。


 (原文)

 或曰:古者、人君即位、或踰月稱元年、

 或踰年而称元年。

 踰月而稱元年者、成湯既沒、

 太甲元年、是也。

 孟子云、太丁未立者。

 謂太丁未立而死也。

 外丙二年、仲壬四年者、皆謂太丁之子太甲二兄、

 或生二年、或生四年而死。

 太甲所以得継湯耳、

 史記便謂。此仲壬、外丙為二君、誤也。

 由前、則以先君終年、即位稱元。

 非是、

 由後、則可謂得商人之禮者矣。

 (訳文)

 あるいは曰く「古代は、人君が即位すると、翌月を元年と称した、

 あるいは翌年を元年と称した」。

 翌月を元年と称したのは、成湯が没し、

 (大甲が即位したので太甲元年とした)太甲元年とは、これなり。

 孟子に言う「太丁は未だ立たずとは、

 太丁は立たないまま死去したことをいう」。

 外丙二年、仲壬四年とは、どちらも太丁の子、太甲の二人の兄であり、

 あるいは生誕二年、あるいは生誕四年で死んだことをいう。

 太甲はそれ故に湯の王位を継承できたのであり、

 史記がこの仲壬と外丙を二君と言うのは、誤りである。

 前者によれば、先君の終末の年に即位し、元年を称したことになるが、

 そんなはずがない。

 後者によれば、商人の礼法に適ったと言うべきであろう。


 (原文)

 元年秋七月、樂浪兵至、圍金城數重。

 王謂左右曰:二聖棄國、

 孤以國人推戴、謬居於位。

 危懼若渉川水。今鄰國来侵。

 是孤之不德也。爲之若何? 

 左右對曰:

 賊幸我有喪、妄以兵来。

 天必不祐。不足畏也。

 賊俄而退歸。

 (訳文)

 元年(4年)秋7月、楽浪の兵が到来、金城を幾重にも包囲した。

 王の左右の重臣が曰く「二聖は国を去り(死去)、

 余は国人に推戴され、誤って位に就いた。

 危惧は河川を渡るがごとし。今、隣国が来寇する。

 これは余の不徳である。これを如何に為すべきか?」

 左右の重臣が返答した。

 「賊は我らの服喪を幸とし、妄りに兵を寄こした。

 天の加護を得られないことは必定です。恐れるに足りません」。

 賊は俄かに兵を退いて帰った。

 (原文)

 五年春正月、王聞脱解之賢、

 以長女妻之。

 (訳文)

 五年(8年)春正月、王は脱解が賢者であると聞き、

 長女を彼の妻にした。

 (原文)

 七年秋七月、以脱解為大輔、委以軍國政事。

 (訳文)

 七年(10年)秋七月、脱解を大輔と為し、軍務と国政の責任を委ねた。

 (原文)

 十一年、倭人遣兵船百餘艘、掠海邊民戸。

 發六部勁兵以禦之。

 樂浪謂内虚、来攻金城、甚急。

 夜有流星、墜於賊榮。

 衆懼而退、屯於閼川之上、

 造石堆二十而去。

 六部兵一千人追之。

 自吐含山東至閼川、

 見石堆、知賊衆乃止。

 (訳文)

 十一年(14年)、倭人が戦船を百艘余り派遣して海辺の民家を掠奪した。

 六部の強兵を出発させてこれを防御した。

 楽浪は内部の虚を突くと言って急遽、金城に侵攻して来た。

 夜に流星が現れ、賊の陣営に撃墜。

 軍勢は驚愕して退散、閼川の岸上に屯営し、

 石を20個ほど積み上げて退去した。

 六部の兵士一千人がこれを追撃した。

 吐含山の東から閼川に到着したが、

 石積みを見て、賊の軍勢が待ち構えていると思い、追撃を中止した。

 (原文)

 十六年春二月、北溟人耕田、得濊王印。

 獻之。

 (訳文)

 十六年(19年)春二月、北溟の人が田を耕作中に濊王の印を拾得し、

 これを献上した。

 (原文)
 
 二十一年秋九月、蝗。王薨。葬蛇陵園内。

 (訳文)

 二十一年(24年)秋九月、蝗が発生。王が薨じた。蛇陵の園内に葬った。

 ※出典:新羅の歴史

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史


《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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