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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
三國史記 卷第一 新羅本紀第一 婆娑尼師今(原文)
第五代 婆娑尼師今(在位 80年-112年)
(原文)
婆娑尼師今立。
儒理王第二子也、或云儒理弟奈老之子也。
妃金氏史省夫人。
許婁葛文王之女也。
初脱解薨。
臣僚欲立儒理太子逸聖、
或謂、逸聖雖嫡嗣、而威明不及婆娑、
遂立之。
婆娑節儉省用而愛民、
國人嘉之。
(訳文)
婆娑尼師今が立った。
儒理王の第二子(あるいは儒理の弟の奈老の子とも)。
妃は金氏の史省夫人。
許婁葛文王の娘である。
初め脱解が薨じた。
幕僚たちは儒理の太子の逸聖を擁立しようとした。
あるいは逸聖は嫡嗣ではあるが、威明が婆娑には及ばず、
遂にこれを擁立したという。
婆娑は倹約して費用を省き、民を愛したので、
国人はこれを称賛した。
(原文)
六年春正月、百濟犯邊。二月、以吉元為阿飡。
夏四月、客星入紫微。
八年秋七月、下令曰
「朕以不徳、有此國家、西鄰百濟、南接加耶、
徳不能綏。威不足畏。
宜繕葺城塁。以待侵軼」。
是月、築加召馬頭二城。
十五年春二月、
加耶賊囲馬頭城、遣阿吉元、
将騎一千撃走之。
秋八月、閲兵於閼川。
十七年秋七月、暴風自南、抜金城南大樹。
九月、加耶人襲南鄙、
遣加城主長世拒之、為賊所殺。
王怒率勇士五千、出戰敗之、虜獲甚多。
十八年春正月、
擧兵欲伐加耶、
其國主遣使請罪、乃止。
(訳文)
六年(85年)春正月、百済が辺境を侵す。二月、吉元を阿飡にした。
夏四月、客星(彗星)が天帝の紫微宮に侵入した。
八年(87年)秋七月、命令を宣下して曰く
「朕は不徳なれども、ここに国家あり、
西隣りは百済、南は加耶に接している。
(朕の)徳では鎮撫できず、
(朕の)威光では畏服させるには足らない。
そこで、城郭や土塁を修理し、大々的な侵攻に備えよ」。
この月、加召、馬頭の二城を築いた。
十五年(94年)春二月、
加耶の賊が馬頭城を包囲したので、阿吉元を送って、
騎兵一千を率いて攻撃、これを敗走させた。
秋八月、閼川で閲兵式を行なう。
十七年(96年)秋七月、暴風が南から襲来、
金城の南の大樹が引き抜かれた。
九月、加耶人が南の辺境を襲撃したので、
加城主の長世を派遣して防戦させたが、賊に殺された。
王は怒り、勇士五千人を率いて出撃し、
これを負かして、甚だ多くの捕虜を獲得した。
十八年(97年)春正月、
兵を挙げて加耶を征伐しようとしたが、
そこの国主が使者を送って来て謝罪を請うたので、中止した。
※「加耶(かや)」
何度も加耶の名が登場するが、
加耶とは、
伽耶(カヤ)、伽羅・迦羅(カラ)、加洛・駕洛(カラク)
とも表記される。
いつの時代から存在したのかは不明だが、
三国魏時代(三世紀中頃)には、弁辰(弁韓)には
十二国あったと魏志は記している。
※出典:新羅の歴史
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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