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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
≪第三代 儒理尼師今(在位 24年-57年)≫
『三国史記』新羅本紀
(原文)
十七年秋九月、
華麗不耐二縣人連謀、
率騎兵犯北境。
貊國渠帥、以兵要曲河西敗之。
王喜与貊國結好。
(訳文)
十七年(40年)秋九月、
華麗と不耐の二県の人々が共謀して、
騎兵を率いて北の国境を侵犯した。
貊国の渠帥(りょうすい=首領)が
出兵して曲河の西で要撃(待ち伏せ)してこれを敗る。
王が喜んで濊貊と友好を結んだ。
※「貊国」
ツングース語系諸族に詳細を記載したが、
扶余・高句麗・沃沮・濊貊は穢系部族連合の同族で、
古代には「濊・貊・貉」とも呼ばれたが、
上記の不耐県は濊貊の所領地であり、
濊貊の国王は「不耐濊侯」と称された。
従って、貊国が濊貊を指しているのであれば、
新羅(この当時は辰韓)の味方をして、
自国の不耐県の兵士を攻めることは考えられない。
貊には大熊猫(パンダ)の意味もあり、
新羅本紀は半島の山岳狩猟部族を適当に貊国と名付けて記載した、
あるいは儒理尼師今が曲河で濊貊の軍勢に和議を願ったことを、
その立場を逆転させて記録したのかもしれない。
(原文)
十九年秋八月、貊帥獵得禽獸獻之。
三十三年夏四月、龍見金城井、有頃、暴雨自西北来。
五月、大風抜木。
(訳文)
十九年(42年)秋八月、
貊国の渠帥が狩猟で獲得した禽獣を献じた。
三十三年(56年)夏四月、
龍が金城の井戸に現れ、同時に暴風雨が西北より到来した。
五月、大風で木が抜けた。
※不思議な文章である。
龍の出現は吉兆、暴風雨の到来は凶兆。
そして、
木が抜けるとの表現は国王の死去(殺害)を象徴する場合が多い。
ここから推測すると、新たな王が西北から現れ、現国王は殺された、
あるいは退位を強制されたことになる。
(原文)
三十四年秋九月、王不豫。
謂臣寮曰:脱解身聯國戚、
位處輔臣、屡著功名。
朕之二子、其才不及遠矣。
吾死之後、即大位、
以無忘我遺訓。
冬十月、王薨。葬蛇陵園内。
(訳文)
三十四年(57年)秋九月、王は不快。
臣下らに向かって「脱解は身分は外戚に連なり、
位は大輔の臣、何度も著しい功名をあげている。
朕の二子は、その才能は遠く及ばない。
朕の死後、王に即位させるがよい。
朕の遺訓を忘れてはならない」と言った。
冬十月、王が薨じた。蛇陵の園内に葬った。
※出典:新羅の歴史
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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