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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
三國史記 卷第一 新羅本紀第一 婆娑尼師今
第五代 婆娑尼師今(在位 80年-112年)
第五代・婆娑尼師今(3)
(原文)
十九年 夏四月 京都旱
二十一年 秋七月 雨雹 飛鳥死
冬十月 京都地震 倒民屋有死者
二十二年春二月、築城名月城。
秋七月、王移居月城。
二十三年秋八月、
音汁伐國與悉直谷國争疆、詣王請決。
王難之、謂「金官國首露王、年老多智識」。
召問之。
首露立議、以所争之地、属音汁伐國。
於是、王命六部、會饗首露王。
五部皆以伊飡為主。
唯漢祇部、以位卑者主之。
首露怒、命奴耽下里、
殺漢祇部主保濟而歸。
奴逃依音汁伐主、鄒干家、王使人索其奴、鄒不送。
王怒、以兵伐音汁伐國、其主與衆自降。
悉直押督二國王来降。
冬十月、桃李華。
(訳文)
十九年(98年) 夏四月、京都旱魃。
二十一年 秋七月 雨雹 飛鳥死
冬十月 京都に地震があり、民家が倒れ、死者あり。
二十二年(101年)春二月、名月城を築城。
秋七月、王は月城に移り住んだ。
二十三年(102年)秋八月、
音汁伐国は悉直谷国と領域で争い、王に詣でて裁決を請う。
王は難題なので
「金官国の首露王、老齢だが智識に富んでいる」と言い、
彼を召し出して問うた。
首露は会議を開き、所有権を争う地を、音汁伐国に属するとした。
ここに、王は六部に命じて、首露王のための饗宴を会した。
五部は皆、伊飡を主人役としたが、
ただ漢祇部だけは位の低い者に接待をさせた。
首露は怒り、奴僕の耽下里に命じて、
漢祇部の主である保濟を殺させて、帰還した。
(暗殺者の)奴僕は音汁伐の主である鄒干の家を頼って逃げ込んだ。
王は人にその奴僕を探索させたが、鄒干は(犯人を)送らなかった。
王は怒り、兵を以て音汁伐国の討伐をした。
そこの主は民衆とともに自ら降伏した。
悉直、押督の二国王も投降してき来た。
冬十月、桃李の花が咲いた。
※「首露王」
天から六個の金の卵が降臨したが、
最初に卵殻から首を出した男児を、
金の卵から初めに首を出したことで「金首露」と名付けた。
彼は大駕洛(または金官伽耶)を建国、
他の五個の卵から男児が生まれ、
それぞれが五つの伽耶の国王になったとされる。
※『晋書』辰韓伝
弁辰もまた十二国、合計四、五万戸。
各々に渠帥がいるが、皆、辰韓に属している。
辰韓は常に馬韓人を君主とする、代々の相伝とはいえ、
自立することを得ず、
明らかに流移の人ゆえに馬韓が全土を制している。
弁韓は辰韓に属すとあることから、
伽耶の盟主である首露王も属国の王として、
辰韓の招集を受けることがあり得るかもしれないが、
韓国の福泉博物館の説明文では、
それほど国力に格差はなかったとある。
※『加耶』福泉博物館
加耶は一つの連合体として結ばれていたが、
一つの国家でありながら、
政治的な統合をなしえないまま新羅に併合されたが、
最近、加耶地域での遺跡発掘の成果を見ると、
同じ時期の百済や新羅に劣らぬ国力と文化を持っていたことが分かる。
その中の代表的な遺跡が金官加耶の歴史を
顕著に表わしている福泉洞古墳群である。(『説明文』より抜粋)。
※二十三年条の文末に
「冬十月、桃李の花が咲いた」という奇妙な一節がある。
季節外れの花が狂い咲くという表現は、
予想外の事変発生を象意しており、
実は首露王を招聘したのではなく、
首露王が辰韓諸国の王と組んで、
辰韓の盟主である斯盧国を奇襲したのではないかと想像する。
※出典:新羅の歴史
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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