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『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
≪衛氏朝鮮と漢の四郡≫
古朝鮮も末葉になると、貴族間の勢力拡大紛争がつづき、
国力に乱れが生じていた。
その乱れに乗じて、衛満が箕準(准とも記す)王から王位を簒奪し、
衛満が古朝鮮を引き継ぐ。
衛満一族は3代、80余年間王位を継承して滅亡する。
その王朝を衛氏朝鮮と呼ぶ。
古朝鮮時代は衛氏朝鮮の滅亡で終焉を告げる。
ときは紀元前108年であった。
『史記』によれば、衛満は燕王廬綰の武将であったという。
廬綰が漢に背いて匈奴に逃れたとき、
衛満は1000余人の兵を率いて狽水を渡り、
箕準王のもとに走り、その臣下として仕えた。
紀元前195年(漢の高祖12年)のことである。
衛満は箕準王の厚い信頼をえていたが、
やがて燕や斉の亡民を糾合して勢力を拡大していった。
そして、箕準王を追放して王位を簒奪して衛氏朝鮮の始祖となった。
衛満を燕人(中国人)とみるか、それとも古朝鮮人とみるかで、
衛氏朝鮮の位置づけと性格が変わる。
過去には燕人とする説が強かったが、
現在では、古朝鮮の貴族または
古朝鮮系の燕人であったという説が有力である。
衛満は古朝鮮王から王位を簒奪したとはいえ、
その国家を継承しているので、
古朝鮮という国家の枠組のなかでとらえられている。
衛氏朝鮮はある時期、その勢力を拡大し、
漢の領域を脅かすほどになった。
が、紀元前108年、
漢の武帝の攻撃を受け、
翌年、衛満の孫右準王は内乱で殺されて国は滅ぶ。
漢の武帝は衛氏朝鮮を滅ぼすと、漢四郡を設置して、
古朝鮮領域とその周辺への支配権確立のための基地とする。
漢四郡とは、楽浪、臨屯、玄莬、真番の四郡のことをいう。
なかでも楽浪郡は420余年間もつづいたが、
高句麗の広開土王(在位391~413)によって滅ぼされた。
「写真」東三洞貝塚
釜山市影島区影島は、
のちの後百済の甄萱時代には牧場として知られ、
解放前は、絶影島(牧ノ島)と呼ばれた。
新石器時代の土器が層位的に発掘された著名な遺跡。
櫛目文土器にまじって、九州の縄文土器片や
西北九州型の釣針・黒曜石などが出土し、
海峡を超えた交流を裏付けた。
写真は1970年頃。
対岸の属島朝島には新石器~原三国時代の貝塚
(現、海洋大学校のあたり)があり、
国立博物館のよって調査された。
「写真」金海水佳里貝塚
南部地方櫛目文土器中・後期の標準遺跡。
特に、蛍光X線分析により出土遺物中の黒曜石は
九州腰岳産のものであることが判明。
写真は1979年の発掘時のもの。
「写真」三千浦市勒島遺跡全景
韓国八景のひとつ閑麗水道にある小島で、
島全体が大規模な遺跡として形成され、
貝塚・住居跡・墓地などが見つかっている。
「写真」勒島式土器と弥生土器
勒島遺跡から韓半島南部の終末段階の無文土器が
多数出土しているが、
そのなかに北部九州弥生中期前半の弥生土器片が
混在していることで注目され、
相互の交差年代を得る上で貴重である。
「写真」松菊里石棺墓出土一括遺物
銅剣は韓国青銅器文化を代表する遺物で、
遼寧式、または琵琶形銅剣とも呼ばれる
(長さ33.0センチメートル)。
柄は別鋳で、組込み式になっており、
細形銅剣の祖形とも考えられる。
南韓における東北地方青銅器文化の受容の姿をしめすもの。
「写真」先史時代主要遺跡分布図
旧石器時代主要遺跡
新石器時代主要遺跡
青銅器時代主要遺跡
原三国時代主要遺跡
神話など関係地名
※出典:河出書房新社 図説・韓国の歴史:16頁
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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