2014年10月6日月曜日

第三代・儒理尼師今(3)

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪第三代 儒理尼師今(在位 24年-57年)≫

 『三国史記』新羅本紀

 (原文)

 九年自秋七月既望、

 毎日早集大部之庭績麻、乙夜而罷。

 至八月十五日、考其功之多小、

 負者置酒食、以謝勝者。

 於是、歌舞百戯、皆作。

 謂之嘉俳、

 是時、負家一女子、起舞嘆曰:会蘇、会蘇。

 其音哀雅、後人因其聲而作歌、名会蘇曲。 

 (訳文)

 九年秋七月の既望(十六日)、

 毎日、早朝に大部の庭に集合して麻を紡ぎ、乙夜(亥の刻)に止める。

 八月十五日には、その実績の多少を検査し、

 敗者は酒食を用意して、勝者に謝罪する。

 ここに於いて歌い舞い様々な遊びを皆でする。

 これを嘉俳といい、

 この時、敗者側の一人の女子が舞い始め、

 嘆息して「会蘇、会蘇」という。

 その音調には哀愁と風雅があり、

 後世の人はその音声を基にして歌を作り、

 会蘇曲と名付けた。

 ※「既望(きぼう)」

  望(もち)または望月は「陰暦十五夜の満月」をいう。

  従って、既望(既に望)とは、十五夜の満月が終わったこと、

  すなわち陰暦十六日の夜(十六夜=いざよい)を意味している。

  また、幾望(きぼう=ほとんど望)は、陰暦の十四日の夜をいう。


  「乙夜(いつや)」

  五夜のなかの午後9時~午後11時まで(亥の刻)を指している。

  ただ、唐の文宗皇帝が日中は政務繁多で、

  夜10時から読書を始めたことから、天子の書見をいうこともある。

 (原文)

 十三年秋八月、楽浪犯北邊、攻陷朶山城。

 十四年、高句麗王無恤、襲楽浪滅之。

 其國人五千来投、分居六部。

 (訳文)

 十三年(36年)秋八月、楽浪が北辺を侵犯し、

 朶山城を攻めて陥落させた。

 十四年(37年)、高句麗王の無恤は楽浪を攻撃し、これを滅ぼした。

 その国人五千人が投降して来たので、六部に分居させた。

 ※「楽浪」

  楽浪郡が続けて登場するが、

  高句麗が楽浪郡を滅ぼすのは313年のこと。

  まるで預言書のように276年先の未来が記述されている。

 ※『後漢書』弁辰伝

  建武二十年、韓人廉斯人蘇馬諟等詣樂浪貢獻。

  光武封蘇馬諟為漢廉斯邑君、使屬樂浪郡、四時朝謁。

  靈帝末、韓、濊並盛、郡縣不能制、百姓苦亂、多流亡入韓者。

  建武二十年(44年)、

  韓人、廉斯人の蘇馬諟らが楽浪郡に詣でて貢献したので、

  光武帝は蘇馬諟を漢の廉斯邑君に封じ、楽浪郡に属させて、

  四季ごとに入朝させた。

  霊帝の末(189年)、

  韓、濊はともに強勢となって郡県では制することができなくなり、

  百姓は騒乱に苦しみ、多くが流浪して韓に逃げ込んだ。

  廉斯人の蘇馬諟。どこか高墟村の蘇伐都利と姓が似ているが、

  いずれかが蘇我氏の源流かと想像をかきたてるが根拠はない。

 ※出典:新羅の歴史

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》



 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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