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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
≪第三代 儒理尼師今(在位 24年-57年)≫
『三国史記』新羅本紀
(原文)
九年自秋七月既望、
毎日早集大部之庭績麻、乙夜而罷。
至八月十五日、考其功之多小、
負者置酒食、以謝勝者。
於是、歌舞百戯、皆作。
謂之嘉俳、
是時、負家一女子、起舞嘆曰:会蘇、会蘇。
其音哀雅、後人因其聲而作歌、名会蘇曲。
(訳文)
九年秋七月の既望(十六日)、
毎日、早朝に大部の庭に集合して麻を紡ぎ、乙夜(亥の刻)に止める。
八月十五日には、その実績の多少を検査し、
敗者は酒食を用意して、勝者に謝罪する。
ここに於いて歌い舞い様々な遊びを皆でする。
これを嘉俳といい、
この時、敗者側の一人の女子が舞い始め、
嘆息して「会蘇、会蘇」という。
その音調には哀愁と風雅があり、
後世の人はその音声を基にして歌を作り、
会蘇曲と名付けた。
※「既望(きぼう)」
望(もち)または望月は「陰暦十五夜の満月」をいう。
従って、既望(既に望)とは、十五夜の満月が終わったこと、
すなわち陰暦十六日の夜(十六夜=いざよい)を意味している。
また、幾望(きぼう=ほとんど望)は、陰暦の十四日の夜をいう。
「乙夜(いつや)」
五夜のなかの午後9時~午後11時まで(亥の刻)を指している。
ただ、唐の文宗皇帝が日中は政務繁多で、
夜10時から読書を始めたことから、天子の書見をいうこともある。
(原文)
十三年秋八月、楽浪犯北邊、攻陷朶山城。
十四年、高句麗王無恤、襲楽浪滅之。
其國人五千来投、分居六部。
(訳文)
十三年(36年)秋八月、楽浪が北辺を侵犯し、
朶山城を攻めて陥落させた。
十四年(37年)、高句麗王の無恤は楽浪を攻撃し、これを滅ぼした。
その国人五千人が投降して来たので、六部に分居させた。
※「楽浪」
楽浪郡が続けて登場するが、
高句麗が楽浪郡を滅ぼすのは313年のこと。
まるで預言書のように276年先の未来が記述されている。
※『後漢書』弁辰伝
建武二十年、韓人廉斯人蘇馬諟等詣樂浪貢獻。
光武封蘇馬諟為漢廉斯邑君、使屬樂浪郡、四時朝謁。
靈帝末、韓、濊並盛、郡縣不能制、百姓苦亂、多流亡入韓者。
建武二十年(44年)、
韓人、廉斯人の蘇馬諟らが楽浪郡に詣でて貢献したので、
光武帝は蘇馬諟を漢の廉斯邑君に封じ、楽浪郡に属させて、
四季ごとに入朝させた。
霊帝の末(189年)、
韓、濊はともに強勢となって郡県では制することができなくなり、
百姓は騒乱に苦しみ、多くが流浪して韓に逃げ込んだ。
廉斯人の蘇馬諟。どこか高墟村の蘇伐都利と姓が似ているが、
いずれかが蘇我氏の源流かと想像をかきたてるが根拠はない。
※出典:新羅の歴史
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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