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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
≪新羅始祖王伝説の証言≫
倭の五王が繰り返し主張した朝鮮半島の領土のうち、
少なくとも新羅が、いつの頃からか日本人を王としていた事実、
国内の主要地名が日本語で占められていた事実、
肇国(ちょうこく)神話までが同じ舞台をもっている事実などなど、
偶然では起こり得ない大量の証拠群が実在していることで、
彼らの主張は嘘ではなかったことが明らかになった。
しかもそれらは新羅の発生を九州だったと証言しはじめている。
だが証拠が一致するからといって、同祖であるというだけで、
どちらがどちらを支配していたと断言できないではないか、
という疑問がまだ残っている。
これが解決して初めて
倭王は新羅に君臨していたかどうかが確認できるのである。
これは何によって知ることができるであろうか?
『日本書紀』と『三国史記』[新羅本紀]に分裂している
始祖伝説の天孫降臨を比較してみれば、まず答えがでる。
なぜなら、この二つは同じ事件を異なった視野で、
別の方向から見ているからである。
ニニギの尊は高天原を出発して、まだ見ぬ国へ天降る。
『記・紀』では、
その前に、高天原の事件と、
天孫降臨に至る外交交渉などの経緯を、事こまかに記録している。
これに対して、[新羅本紀]の方は次のようになっている。
さきにお話しした六部の人々は「朝鮮の遺民」と書かれていて、
山の谷間に分かれ住み、六力村を構成していた。
ある日、高墟村の長である蘇伐公が楊山のふもとをながめると、
林の中で馬が前足を曲げて、
ひざまずくようなかっこうでいなないている。
大急ぎで行ってみると、たちまち馬の姿は消えて、
そこには大きな卵があった。
割ってみると中には赤ん坊が入っていた。
つれて帰って育てたが十年余りで堂々とした青年になった。
六部の人たちはその誕生の不思議さ神秘さを思い、
尊敬してとうとう王様にしたとある。
おわかりのように
『日本書紀』の方は王として君臨した人物の側から、
降臨前の事情まで充分にわかるように書かれているのに対し、
この[新羅本紀]の方は、
その王を受けいれた人民の立場から前後の事情が書かれている。
馬の不思議や卵生という奇蹟に脚色されてはいるが、
それは征服者と被征服者の気まずい同居を、
改善しようとする知恵の現れで、
真相は力による征服者と被征服者との悲劇を秘めているのである。
この意味で、
はっきり政権の移譲を書く『記・紀』の大国主の国譲りなどの方が、
より真相に近いといえる。
『記・紀』のそれは立派に近代でも通用する外交記事であるのに対し、
新羅のそれは常識はずれな童話の一種にすぎない。
しかもそれが書かれたのは逆に、
『日本書紀』の方が5世紀近く早い。
※出典:KOFUN・164~165頁
『古代史獺祭』
『堀貞雄の古代史・探訪館』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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