2014年10月15日水曜日

新羅始祖王伝説の証言


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪新羅始祖王伝説の証言≫

 倭の五王が繰り返し主張した朝鮮半島の領土のうち、

 少なくとも新羅が、いつの頃からか日本人を王としていた事実、

 国内の主要地名が日本語で占められていた事実、

 肇国(ちょうこく)神話までが同じ舞台をもっている事実などなど、

 偶然では起こり得ない大量の証拠群が実在していることで、

 彼らの主張は嘘ではなかったことが明らかになった。

 しかもそれらは新羅の発生を九州だったと証言しはじめている。

 だが証拠が一致するからといって、同祖であるというだけで、

 どちらがどちらを支配していたと断言できないではないか、

 という疑問がまだ残っている。

 これが解決して初めて

 倭王は新羅に君臨していたかどうかが確認できるのである。

 これは何によって知ることができるであろうか?

 『日本書紀』と『三国史記』[新羅本紀]に分裂している

 始祖伝説の天孫降臨を比較してみれば、まず答えがでる。

 なぜなら、この二つは同じ事件を異なった視野で、

 別の方向から見ているからである。

 ニニギの尊は高天原を出発して、まだ見ぬ国へ天降る。

 『記・紀』では、

 その前に、高天原の事件と、

 天孫降臨に至る外交交渉などの経緯を、事こまかに記録している。

 これに対して、[新羅本紀]の方は次のようになっている。

 さきにお話しした六部の人々は「朝鮮の遺民」と書かれていて、

 山の谷間に分かれ住み、六力村を構成していた。

 ある日、高墟村の長である蘇伐公が楊山のふもとをながめると、

 林の中で馬が前足を曲げて、

 ひざまずくようなかっこうでいなないている。

 大急ぎで行ってみると、たちまち馬の姿は消えて、

 そこには大きな卵があった。

 割ってみると中には赤ん坊が入っていた。

 つれて帰って育てたが十年余りで堂々とした青年になった。

 六部の人たちはその誕生の不思議さ神秘さを思い、

 尊敬してとうとう王様にしたとある。

 おわかりのように

 『日本書紀』の方は王として君臨した人物の側から、

 降臨前の事情まで充分にわかるように書かれているのに対し、

 この[新羅本紀]の方は、

 その王を受けいれた人民の立場から前後の事情が書かれている。

 馬の不思議や卵生という奇蹟に脚色されてはいるが、

 それは征服者と被征服者の気まずい同居を、

 改善しようとする知恵の現れで、

 真相は力による征服者と被征服者との悲劇を秘めているのである。

 この意味で、

 はっきり政権の移譲を書く『記・紀』の大国主の国譲りなどの方が、

 より真相に近いといえる。

 『記・紀』のそれは立派に近代でも通用する外交記事であるのに対し、

 新羅のそれは常識はずれな童話の一種にすぎない。

 しかもそれが書かれたのは逆に、

 『日本書紀』の方が5世紀近く早い。

 ※出典:KOFUN・164~165頁


 『古代史獺祭
 『堀貞雄の古代史・探訪館
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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