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『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
≪地名は史実を裏づける≫
同じく『遺事』の脱解王の条をみると
「船は飛ぶように走って、鶏林の東下西知村の阿珍浦に着いた」とある。
これも『史記』よりずっと詳しくなっている。
そして「船の中には長さ20尺、幅13尺の箱が一つあった。
-中略-
開けてみると端正な男子が七宝や家臣、侍女を満載した中にいた。
食物を与えること7日。
やっと次のように話し。」
「私は竜城国人です。
私の国には、かつて28竜王が居り、
人のおなかを借りて生まれました。
皆5~6歳で王位に即き、万民を教育し、
性質や運命を良くしてきたのです。
-中略-
私の父王は含達婆(カンタチバ)で、
積女国の王女を妃としましたが、
いくら経っても子どもができません。
そこで祈祷(きとう)をして7年後、
生まれたのは一個の大きな卵でした。
大王は群臣に
『人でありながら卵を生むというのは未曽有のことである。
国にとって不吉なしるしだと思う』といい、
箱を造らせて卵を置き、さまざまな宝や家臣たちを舟にのせ、
海に浮かべて祈って
『縁があったらどこか良い所檻着くであろうから運命に任せよう。
そこに国を立て家系を築いてくれ』
といいました。
幸い赤竜がずっと護ってくれたお蔭で、
ここへ着くことができたのです」
この話になると、
家来を引きつれて天降ったニニギの尊の天孫降臨と
だいぶ近くなってくる。
到着点もよく似ている。
また『ヒミコ』などでお話しした「オオヒルメ」の話そっくりだ。
ニニギの尊は『書紀』の一書によると、
高千穂からさらに、吾田の長屋の笠狭(かささ)の御崎(みさき)に行く。
阿珍と吾田は、田を都という字におきかえると、
<チ>という、沖縄音が出てきて、
吾都の、は<アチヌ>とも<アタノ>とも読めることになる。
下西知もまた笠狭と変わることのできる
<カサチ>、<カサシ>の関係にある。
さらにこの下西知は<チ>を都の字でおきかえると<カセタ>となり、
笠狭の東隣の加世田と同音になるが、ここは<アダ>の中心地である。
また笠狭には高崎鼻という岬があるが、東下西知は<トカサチ>。
<ト>に都。<チ>を沖縄音とみて支の字におきかえれば、
都下西支は<トカシキ>とも<タカサキ>とも読める。
渡嘉敷と高崎だ。
地名はこんなふうに現在では幾種類にも分化して、
それぞれの土地で固有名詞化しているが、
もともとは一つの地名から分かれたものだったことが
おわかりいただけると思う。
<赫居世国(カゴシマ)建国当時の新羅と百済(3世紀後半)>
新羅は張政の女王国にあたる領域
◇任那:三股
◇新羅
姫木
知覧
枚聞神社(新羅王神社)
◇百済
※出典:KOFUN・169~171頁
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『堀貞雄の古代史・探訪館』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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