Matのジオログ
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
≪始林~鶏林~知林≫
今度は同じ種子ガ島の「辰韓」が「大隅」から北上して
「白日」「斯盧」「新羅」と発展していったのを見て戴いた。
次は朝鮮の正史『三国史記』が証明する
南九州発祥の遺跡をご紹介しよう。
先に天智天皇の名乗りに一致する名の山と神社のお話をした。
開聞岳と枚聞神社であった。
それがどこにあるかをご記憶の方の中には、
少し不審に思った方があると思う。
なぜならそれは大隅半島ではなくて、薩摩半島にあったからである。
ところが『三国史記』は薩摩半島に
一番重要な地名があることを記録していたのである。
「新羅本紀」第一の第四代
『脱解・尼師今(尼師今は王と同じ意味の称号)。
脱解は<タツカヤ>または<タカヤ>、
<タケ>への当て字とも考えられる』
の九年に王は「始林」というところで子供を拾った。
「金閼智」という名をつけたが、
この子供は後世、王家の血統が絶えたとき、その子孫が王になった。
種子ガ島の「辰韓」が「タツカラ」から「タカラ」になり、
「高良」から「高麗」「高句麗」へと発展していったことは
前の方で見て戴いた。
金氏王朝の始祖である。
脱解王は、
鶏の鳴き声で子供が見つかったのを記念して始林を鶏林という名に改め、
当時の国名「徐耶伐」を改めて、その「鶏林」を国号にした。
「鶏林」の読み方を考えて見よう。
普通の日本式漢音では「ケイリン」である。
しかしこの王朝の人々は沖縄人だから、
沖縄発音で読まなければ当時の本当の名は分らない。
「ケイ」という発音は沖縄語にはないから「キ」に変るが、
「キ」は普通「チ」と発音するから「鶏林=<チ>林」である。
すると薩摩半島の指宿市にそれと同じ名の島がある。
「知林ガ島」(約600×800m)がそれである。
島といっても奈良・橿原市の畝傍(ウネビ)山によく似た形
(等辺のない三角定親(長い方)の形に近い)の
魚見岳という半島と約1.5キロ程の砂洲でつながり、
ほとんどは陸続きである。
しかし名は一致してもそんな小島が国であったとは思えない。
それは王の墓か、鶏林国の所有する島か、国のシンボルかであって、
どこか他に本当の「鶏林国」がなければならない。
それは小国時代の当時を考えると、
やはり薩摩半島の中になければならない。捜してみよう。
※出典:邪馬壹国大移動・112頁
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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