2014年10月7日火曜日

尼師今(4)

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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪架空の「任那」国名説話≫

 こうした名前の比較は慣れるとごく簡単なものだが、

 不慣れな方には難しく感じるかも知れないから簡単に説明しておこう。

 なぜこうした変り方をするのかというと、

 原因は方言の違いによる発音差と、

 それに対する当て字がいろいろあり、

 その当て字の読み方が人によって変るからである。

 しかしその変型は一見、別の名に見えても、よくみると共通点があり、

 偶然には絶対に起こらない形で一致点が順序正しく並んでいる。

 それによつてほぽ間違いないと見当をつけたものを並べて

 比較してみると、

 どの名からどの名へ、なぜ変化したのかが読みとれる。

 そして一番もとの本当の名がどれであったかも

 確認することができるのである。

 このリストでは真ん中の段に並べたのが

 『魏志』に記録された実在の名である。

 それさえもすでに方言によって五人にも見えるように増えている。

 しかし本当は一人で、

 左の弥馬升と組み合わされて上下の段の別名を生みだしたのである。

 「弥馬升」は崇神天皇皇后の「御間城姫」に当るが、

 重要なことはそれが前にあって、

 天皇の名乗りが後についていることである。

 これは皇后の方が地位が高かった。

 ことを示し、まだ女王国だったことを証明する遺物である。

 「入り婿」という意味で「入日子」という文字を当てたようにもみえる。

 「弥馬升」と当て字された名乗りが先にあって、

 崇神天皇の「ミマキ」の名乗りは後である。

 だとすれば崇神天皇の「御真木」という名によって

 「任那(ミマナ)という植民地名が生まれた。

 という『日本書紀』「垂仁天皇紀」の話は、

 後世の人間が「ミマナ」という国名の説明に困って、

 むりやりコジつけた一種の地名説話であったことが確認でき、

 今後の『記・紀』分析にしっかりした足場の一つが確立したことになる。

 これで3世紀当時、間違いなく実在した人物の「臣濆沽」が、

 敗戦して朝鮮半島から倭国へ逃げこみ

 「弥馬升」と結婚したということになる。

 そして伊都国と奴国の王として名を残した。

 それを『記・紀』が「新羅王子」としたのは、

 「爾支」という称号と

 『三国史記』「新羅本紀」に王称として記録されている

 「尼師今」という称号とがうまく合うため、

 8世紀の『記・紀』編集当時の新羅の名を使って、

 その国籍を表現したのである。

 ※出典:邪馬壹国大移動・99頁

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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