2014年10月21日火曜日

第五代・婆娑尼師今(4)


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 三國史記 卷第一 新羅本紀第一 婆娑尼師今

 第五代 婆娑尼師今(在位 80年-112年)

 第五代・婆娑尼師今(4)

 (原文)

 二十五年春正月、衆星隕如雨不至地。

  秋七月、悉直叛、發兵討平之。

  徙其餘衆於南鄙。

 (訳文)

 二十五(104年)年春正月、

  雨のように多数の流星が降ったが、大地には届かなかった。

  秋七月、悉直が謀叛したので、兵を発してこれを討ち、平定した。

  その残余の民衆は南の辺境に移住させた。

 ※流星の落下と、大地には未到達との表現は、

  昨年十月に謀叛が発生し、今年の七月まで戦闘が続いたが、

  結果的に平定できたことを暗示的に表記しているのだろう。

 (原文)

 二十六年春正月、百濟遣使請和。

  二月、京都雪三尺。

 (訳文)

 二十六年(105年)春正月、百済が使者を派遣して講和を請うた。

  二月、京都に雪三尺。

 ※「百済」

 六年条に続いて百済が登場するが、前掲の『晋書』辰韓伝をみれば、

 辰韓は馬韓に属しており、馬韓人を君主にするとある。

 通説では、馬韓の伯済国が発展し、

 馬韓を統一して百済国になったとされる。

 従って、この時期の百済(馬韓)は辰韓を間接統治しており、

 辰韓に講和を請うことはありえない。

 ただし、後世百済が一国になる過程に於いて、

 扶余国王の尉仇台が建国した

 北方百済、馬韓内の南方百済の二国の百済があったとする説があり、

 北方百済は遼西に都城を置いたほどの強国だが、

 倭国が当初通好した百済は南方百済とされ、

 この南方百済を言うのかもしれないが、その可能性は薄い。

 王の事績を粉飾するための虚飾だと思われる。


 (原文)

 二十七年春正月、

  幸押督賑貧窮。

  三月至自押督。

  秋八月、命馬頭城主、伐加耶。

 二十九年夏五月、大水民飢。

  發使十道開倉賑給。

  遣兵伐比只國、多伐國、草八國并之。

 三十二年夏四月、

  城門自毀。

  自五月至

  秋七月不雨。

 三十三年冬十月、王薨。

  葬蛇陵園内。

 (訳文)

 二十七年(106年)春正月、幸押督に行幸、

  貧窮する民を救済した。

  三月に押督より帰還した。

  秋八月、馬頭城主に命じて、伐加耶を討伐させた。

 二十九年(108年)夏五月、大水が出て民が餓えた。

  使者を十道(全土)に発して、食糧倉を開けて救済した。

  兵を派遣して比只国、多伐国、草八国を征伐して併合した。

 三十二年(111年)夏四月、

  都城の城門が自毀。

  五月から七月まで雨が降らなかった。

 三十三年(112年)冬十月、王が薨じた。

  蛇陵の園内に葬る。

 ※出典:新羅の歴史

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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