Matのジオログ
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
≪九州が南鮮へ拡大した明瞭な証拠群≫
カラと読む韓国(カラぐに)が
姶良(カラぐに)郡(今の鹿児島県姶良(あいら)郡)の
ことだったことも、
霧島山塊最高峰が韓国見岳(カラぐにみだけ)の名を
今に残す事実などでご承知の通りである。
またB.C.E.194年に、
衛満(エイマン)にダマされた箕子(キし)朝鮮王の準が、
「海を渡って南に逃げた先」が韓だった。
半島から南に海を渡ればそこには九州しかない。
韓国はどこからみても九州の一部にあったのである。
このことは「四神」から生まれた国名も証明している。
東が青竜で、青はオオ=淡、竜は辰。
種子島にピッタリ合う。
これと反対側を意味する西は白虎で、
大隅語のシラは鹿児島語のヒラ、
開聞(ヒラキキ)・枚聞(ヒラキキ)と書く「ヒラギッ」が、
種子島と対照的な西の位置にチャンとある。
ところが後世の半島の国の位置は、
逆転してしまって東がシラギになる。
そして西は四神とは無関係な百済(パクチェ)になる。
しかしこれも「地名移動」の原則に照らしてみると不思議はない。
百済(パクチェ)はご存知のとおり、
もと馬韓であり、馬の国であった。
馬の国は馬津国(マツラ)=松浦(マツラ)である。
その東隣は福岡県である。ここは「白日の国」。
これを「シラジッ」の国と読むと
シラギの沖縄発音「シラジ」になる。
この「西に馬の国・東にシラギの国」が、
そのまま半島南部にまで拡大したのが、
3世紀の半島韓国だったことは疑問の余地がない。
それはその小国群の名が、
ことごとく日本語の名であることでも、
また充分、
立証されているのである。
※出典:大学講義録33・16頁
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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