2014年10月2日木曜日

箕子朝鮮・衛氏朝鮮(5)

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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪九州が南鮮へ拡大した明瞭な証拠群≫

 カラと読む韓国(カラぐに)が

 姶良(カラぐに)郡(今の鹿児島県姶良(あいら)郡)の

 ことだったことも、

 霧島山塊最高峰が韓国見岳(カラぐにみだけ)の名を

 今に残す事実などでご承知の通りである。

 またB.C.E.194年に、

 衛満(エイマン)にダマされた箕子(キし)朝鮮王の準が、

 「海を渡って南に逃げた先」が韓だった。

 半島から南に海を渡ればそこには九州しかない。

 韓国はどこからみても九州の一部にあったのである。

 このことは「四神」から生まれた国名も証明している。

 東が青竜で、青はオオ=淡、竜は辰。

 種子島にピッタリ合う。

 これと反対側を意味する西は白虎で、

 大隅語のシラは鹿児島語のヒラ、

 開聞(ヒラキキ)・枚聞(ヒラキキ)と書く「ヒラギッ」が、

 種子島と対照的な西の位置にチャンとある。

 ところが後世の半島の国の位置は、

 逆転してしまって東がシラギになる。

 そして西は四神とは無関係な百済(パクチェ)になる。

 しかしこれも「地名移動」の原則に照らしてみると不思議はない。

 百済(パクチェ)はご存知のとおり、

 もと馬韓であり、馬の国であった。

 馬の国は馬津国(マツラ)=松浦(マツラ)である。

 その東隣は福岡県である。ここは「白日の国」。



 これを「シラジッ」の国と読むと

 シラギの沖縄発音「シラジ」になる。

 この「西に馬の国・東にシラギの国」が、

 そのまま半島南部にまで拡大したのが、

 3世紀の半島韓国だったことは疑問の余地がない。

 それはその小国群の名が、

 ことごとく日本語の名であることでも、

 また充分、

 立証されているのである。

 ※出典:大学講義録33・16頁

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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