2014年10月28日火曜日

カラ・カヤ・カリは全部日本語


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪カラ・カヤ・カリは全部日本語≫

 馬韓が前もってクダ韓と呼ばれていたとは考えられなくなる。

 それは狗邪韓が勝った以後の呼び方であって、

 馬韓は別の名でなければならない。

 その名は百済始祖王の敵が靺鞨と書かれていることで証明される。

 馬韓と靺鞨の共通音は<マカラ>以外にはない。

 だが当時の朝鮮半島で、

 韓を<カラ>と読む日本訓(よ)みがあったか?

 と疑う方もあろう。

 『ジンム』で詳しく説明してあるが

 『魏志韓伝』にみえる国名はすべて二字以上で、

 一字名の中国名ではなく、

 二字名も朝鮮名ではなく、

 優休牟涿国(ユキュムタン国)、

 咨離牟盧国(シリムロ国)、

 古資弥凍国(コシビト国)、

 斯盧国(シロ国)、

 狗盧国(クロ国)、

 卑弥国(ヒメ国)、

 一難国(イナ国)といった日本語の名がはっきりみられる。

 また『三国史記』や『三国遺事』にも、

 駕洛(カラ)、伽落(カラ)、伽耶(カヤ)という用字がみられ、

 古寧加耶国(クナカヤ国)、

 比斯伐(ヒシカリ)というふうに語尾にきて、

 韓がカラ、カリ、カイ、カヤ

 などと発音されていたことを裏書きしている。

 このマカラはインドのサンスクリット語やパーリ語で鯨のことである。

 <クダラ>と<クジラ>はごく近く、クダ韓とクジャ韓の差と一致する。

 ついでにいうと朝鮮語の鯨は

 コーラエまたはコーレーで高麗の字音と一致する。

 (長い尺度を鯨尺といったのはこの高麗尺のこと。)

 韓の字はいまは<ハン>と発音されている。

 <カ>を<ハ>と発音するなら、<カラ>も<ハラ>

 と発音されていたはずである。

 こうみると<マカラ>は<マハラ>でもある。

 マハとはインド語の「大」である。

 マハラを漢字で書くと大国(マハラ)である。

 馬韓は辰韓、弁韓を圧服し保護していた大国であった。

 そして百舌鳥耳原の主は仁徳天皇で大雀の命、

 大仙陵に葬られ、その地は今、大阪と呼ばれている。

 また大山積の神は大三島に祭られている。

 百済と<マハ>との切っても切れない関係が、ここにも見られる。

 一つの語源がさまざまな言語要素によって、

 分化していった有様がこの国名から読みとれる。

 『ジンム』には百済の発生地は

 狗奴国(鹿児島県熊毛地方)であることが詳しく説明してある。 

 それをご覧いただくと、三つの百済のすべてがわかるはずである。

 ※出典:KOFUN・192頁

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

婆娑尼師今(王統系譜)


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 〔新羅の古代王統系譜〕

                  ┌(7)逸勢─(8)阿達羅
 (1)朴赫居世─(2)南解─(3)儒理─┤ 
                  └(5)婆娑─(6)祇摩

                       (13)金味鄒
                ┌(11)助賁─┬(14)儒礼
   (南解の娘婿) ┌太子滑正─┤     │
 (4)昔脱解─仇鄒─┤     └(12)沽解 └─乞叔─(15)基臨
          │
          └伊買──(10)奈解──于老─(16)訖解


 〔日本風の読み方〕

 居世(コセ、イセ、イヨ)=巨勢=伊勢=伊予

 南解(ナソカイ、ナカ)=南海、中

 儒理(シュリ)=首里

 逸勢(イセ)=伊勢

 阿達羅(アタラ)=阿多国

 婆娑(ハセ)=長谷、泊瀬

 祇摩(キモ、クマ)=肝=熊

 脱解(タカ、タケ)=高、建、武

 仇都(キュウシュウ、クス)=九州、串

 伐休(ハルキ)=春木、開

 伊買(イカイ)=猪養、猪飼

 奈解(ナガ、ナカイ)=長、中井
 
 千老(ウラ)=浦

 訖解(キカイ)=鬼界

 基臨(キリ)=霧、霧島、桐


 〔古い時代の朝鮮語と日本語との関係〕

 1 居西千(カサハン) (キョセイカン)(イシカン←イニシカン)

 2 居瑟邯(カツハン) (キョヒツカン)(イシカン)

 3 尼叱今(ニャサクム)(ニシコン)  (イシカン)

 4 歯叱今(イサクム) (シシコン)  (イシカン)

 5 居世千(カヌイハン)(キョセイカン)(イシカン)

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年10月21日火曜日

『三国遺事』五伽耶


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 三國遺事 (卷1) 紀異卷第一 五伽耶

  『三国遺事』五伽耶

 (原文) 

 五伽耶

 阿羅(一作耶)伽耶(今咸安)

 古寧伽耶(今咸寧)

 大伽耶(今高靈)

 星山伽耶(今京山玄)

 碧珍小伽耶(今固城)又本朝史略云。

 (訳文)

 五伽耶とは、

 阿羅(阿耶)伽耶(今の咸安)、

 古寧伽耶(今の咸寧)、

 大伽耶(今の高霊)、

 星山伽耶(今の京山玄)、

 碧珍小伽耶(今の固城)である。

 (原文)

 按駕洛記贊云、垂一紫纓、

 下六圓卵。

 五歸各邑、一在茲城則一為首露王。

 餘五各為五伽耶之主。

 金官不入五數當矣。

 而本朝史略、

 並數金官而濫記昌寧誤。

 (訳文)

 思うに駕洛記贊にいう、一条の紫色の房が天上から垂れ、

 その下に六個の卵が包まれていた。

 五個は各邑が持ち帰り、

 一個は茲城に在り、首露王となる。

 その余の五個も各々が五伽耶の主となった。

 金官は五(伽耶)の数には入れない。

 しかし、本朝史略は金官をも数に入れるが、

 むやみに昌寧(高霊)を記すのは誤りである。

 (原文)

 又本朝史略云、太祖天福五年庚子改五伽耶名。

 一金官(為金海府)、

 二古寧(為加利縣)、

 三非大(今昌寧恐高靈之訛)、

 餘二阿羅星山

 (同前星山或作碧珍伽耶)

 (訳文)

 また、本朝史略には太祖の天福五年庚子に五伽耶の名を改めたという。

 一に金官(金海府)、

 二に古寧(加利県)、

 三に非大(今の昌寧恐高霊の訛)、

 その余の二国は阿羅星山(前と同じ星山、あるいは碧珍伽耶とも)である。

 ※慶尚南道の金海の亀旨峰(キシフル)に降臨した首露王ら六人の子が、

  そこに加耶六国(駕洛国)を建国したとされるが、

  六加耶とは

  「金官国、阿羅加耶、古寧加耶、大加耶、星山加耶、小加耶」をいい、

  金官国を数に入れないのが『五加耶』ということである。

 ※『倭と加耶の交流』国立歴史民俗博物館

  日本列島に国家が形成され、

  文明化が進行する三~七世紀において

  倭国が最も深い関係をもったのは、

  朝鮮半島南部の加耶を中心とする地域であった。

  弥生時代から古墳時代の前半期において

  日本列島で用いられた鉄資源の主たる供給地は加耶であり、

  また、五世紀以降、急速に流入した騎馬文化、鉄器生産技術、

  製陶技術などは

  直接的にはいずれもこの地域からもたらされたものである

  (2002年シンポジュウムより抜粋)。

 ※出典:新羅の歴史

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

第五代・婆娑尼師今(4)


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 三國史記 卷第一 新羅本紀第一 婆娑尼師今

 第五代 婆娑尼師今(在位 80年-112年)

 第五代・婆娑尼師今(4)

 (原文)

 二十五年春正月、衆星隕如雨不至地。

  秋七月、悉直叛、發兵討平之。

  徙其餘衆於南鄙。

 (訳文)

 二十五(104年)年春正月、

  雨のように多数の流星が降ったが、大地には届かなかった。

  秋七月、悉直が謀叛したので、兵を発してこれを討ち、平定した。

  その残余の民衆は南の辺境に移住させた。

 ※流星の落下と、大地には未到達との表現は、

  昨年十月に謀叛が発生し、今年の七月まで戦闘が続いたが、

  結果的に平定できたことを暗示的に表記しているのだろう。

 (原文)

 二十六年春正月、百濟遣使請和。

  二月、京都雪三尺。

 (訳文)

 二十六年(105年)春正月、百済が使者を派遣して講和を請うた。

  二月、京都に雪三尺。

 ※「百済」

 六年条に続いて百済が登場するが、前掲の『晋書』辰韓伝をみれば、

 辰韓は馬韓に属しており、馬韓人を君主にするとある。

 通説では、馬韓の伯済国が発展し、

 馬韓を統一して百済国になったとされる。

 従って、この時期の百済(馬韓)は辰韓を間接統治しており、

 辰韓に講和を請うことはありえない。

 ただし、後世百済が一国になる過程に於いて、

 扶余国王の尉仇台が建国した

 北方百済、馬韓内の南方百済の二国の百済があったとする説があり、

 北方百済は遼西に都城を置いたほどの強国だが、

 倭国が当初通好した百済は南方百済とされ、

 この南方百済を言うのかもしれないが、その可能性は薄い。

 王の事績を粉飾するための虚飾だと思われる。


 (原文)

 二十七年春正月、

  幸押督賑貧窮。

  三月至自押督。

  秋八月、命馬頭城主、伐加耶。

 二十九年夏五月、大水民飢。

  發使十道開倉賑給。

  遣兵伐比只國、多伐國、草八國并之。

 三十二年夏四月、

  城門自毀。

  自五月至

  秋七月不雨。

 三十三年冬十月、王薨。

  葬蛇陵園内。

 (訳文)

 二十七年(106年)春正月、幸押督に行幸、

  貧窮する民を救済した。

  三月に押督より帰還した。

  秋八月、馬頭城主に命じて、伐加耶を討伐させた。

 二十九年(108年)夏五月、大水が出て民が餓えた。

  使者を十道(全土)に発して、食糧倉を開けて救済した。

  兵を派遣して比只国、多伐国、草八国を征伐して併合した。

 三十二年(111年)夏四月、

  都城の城門が自毀。

  五月から七月まで雨が降らなかった。

 三十三年(112年)冬十月、王が薨じた。

  蛇陵の園内に葬る。

 ※出典:新羅の歴史

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

第五代・婆娑尼師今(3)


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 三國史記 卷第一 新羅本紀第一 婆娑尼師今

 第五代 婆娑尼師今(在位 80年-112年)

 第五代・婆娑尼師今(3)

 (原文)

 十九年 夏四月 京都旱

 二十一年 秋七月 雨雹 飛鳥死 

  冬十月 京都地震 倒民屋有死者

 二十二年春二月、築城名月城。

  秋七月、王移居月城。

 二十三年秋八月、

  音汁伐國與悉直谷國争疆、詣王請決。

  王難之、謂「金官國首露王、年老多智識」。

  召問之。

  首露立議、以所争之地、属音汁伐國。

  於是、王命六部、會饗首露王。

  五部皆以伊飡為主。

  唯漢祇部、以位卑者主之。

  首露怒、命奴耽下里、

  殺漢祇部主保濟而歸。

  奴逃依音汁伐主、鄒干家、王使人索其奴、鄒不送。
 
  王怒、以兵伐音汁伐國、其主與衆自降。

  悉直押督二國王来降。

  冬十月、桃李華。

 (訳文)

 十九年(98年) 夏四月、京都旱魃。

 二十一年 秋七月 雨雹 飛鳥死 

  冬十月 京都に地震があり、民家が倒れ、死者あり。

 二十二年(101年)春二月、名月城を築城。

  秋七月、王は月城に移り住んだ。

 二十三年(102年)秋八月、

  音汁伐国は悉直谷国と領域で争い、王に詣でて裁決を請う。

  王は難題なので

  「金官国の首露王、老齢だが智識に富んでいる」と言い、

  彼を召し出して問うた。

  首露は会議を開き、所有権を争う地を、音汁伐国に属するとした。

  ここに、王は六部に命じて、首露王のための饗宴を会した。

  五部は皆、伊飡を主人役としたが、

  ただ漢祇部だけは位の低い者に接待をさせた。

  首露は怒り、奴僕の耽下里に命じて、

  漢祇部の主である保濟を殺させて、帰還した。

  (暗殺者の)奴僕は音汁伐の主である鄒干の家を頼って逃げ込んだ。

  王は人にその奴僕を探索させたが、鄒干は(犯人を)送らなかった。

  王は怒り、兵を以て音汁伐国の討伐をした。

  そこの主は民衆とともに自ら降伏した。

  悉直、押督の二国王も投降してき来た。

  冬十月、桃李の花が咲いた。

 ※「首露王」

 天から六個の金の卵が降臨したが、

 最初に卵殻から首を出した男児を、

 金の卵から初めに首を出したことで「金首露」と名付けた。

 彼は大駕洛(または金官伽耶)を建国、

 他の五個の卵から男児が生まれ、

 それぞれが五つの伽耶の国王になったとされる。

 ※『晋書』辰韓伝

 弁辰もまた十二国、合計四、五万戸。

 各々に渠帥がいるが、皆、辰韓に属している。

 辰韓は常に馬韓人を君主とする、代々の相伝とはいえ、

 自立することを得ず、

 明らかに流移の人ゆえに馬韓が全土を制している。

 弁韓は辰韓に属すとあることから、

 伽耶の盟主である首露王も属国の王として、

 辰韓の招集を受けることがあり得るかもしれないが、

 韓国の福泉博物館の説明文では、

 それほど国力に格差はなかったとある。

 ※『加耶』福泉博物館

 加耶は一つの連合体として結ばれていたが、

 一つの国家でありながら、

 政治的な統合をなしえないまま新羅に併合されたが、

 最近、加耶地域での遺跡発掘の成果を見ると、

 同じ時期の百済や新羅に劣らぬ国力と文化を持っていたことが分かる。

 その中の代表的な遺跡が金官加耶の歴史を

 顕著に表わしている福泉洞古墳群である。(『説明文』より抜粋)。

 ※二十三年条の文末に

 「冬十月、桃李の花が咲いた」という奇妙な一節がある。

 季節外れの花が狂い咲くという表現は、

 予想外の事変発生を象意しており、

 実は首露王を招聘したのではなく、

 首露王が辰韓諸国の王と組んで、

 辰韓の盟主である斯盧国を奇襲したのではないかと想像する。

 ※出典:新羅の歴史

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年10月20日月曜日

第五代・婆娑尼師今(2)


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 三國史記 卷第一 新羅本紀第一 婆娑尼師今

 第五代 婆娑尼師今(在位 80年-112年)

 第五代・婆娑尼師今(2)

 『三国志魏書』弁辰伝

  弁辰もまた十二国、また諸々の小さな別邑があり、

  各自に渠帥(首領)がおり、大首領は臣智と言い、

  その次に險側、次に樊?、次に殺奚、次に邑借がいる。

 (弁辰に)彌離彌凍国、接塗国、古資彌凍国、古淳是国、

   半路国、樂奴国、彌烏邪馬国、甘路国、狗邪国、走漕馬国、

   安邪国(馬延国)、斯盧国がある。

 (辰韓に)已柢国、不斯国、勤耆国、難彌離彌凍国、冉奚国、

   軍彌国(弁軍彌国)、如湛国、戸路国、州鮮国(馬延国)、

   斯盧国、優由国がある。

 上記の金海の狗邪国が「金官国」、

 高霊の彌烏邪馬国が「大加耶」と改称する。

 また、三国史記が言う新羅とは「斯盧国」のことである。

 「六伽耶」

  上記の弁韓十二国が同盟組織を形成し、

  四世紀から五世紀前半、洛東江下流の金海地域の「金官国」を

  盟主とする連盟体制『五加耶(もしくは六加耶)』が

  成立(前期加耶)。

  また、五世紀後半からは洛東江西側の高霊地域の

  「大加耶」を盟主とする連盟体制が成立(後期加耶)したが、

  百済や新羅に侵食されて弱体化し、

  日本書記では「任那(加耶)で、

  倭国、百済、加耶が復興を協議した」とあるが、

  新羅によって562年に滅ぼされる。

 ※出典:新羅の歴史

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

第五代・婆娑尼師今(1)


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 三國史記 卷第一 新羅本紀第一 婆娑尼師今(原文)

 第五代 婆娑尼師今(在位 80年-112年)

 (原文)

 婆娑尼師今立。

 儒理王第二子也、或云儒理弟奈老之子也。

 妃金氏史省夫人。

 許婁葛文王之女也。

 初脱解薨。

 臣僚欲立儒理太子逸聖、

 或謂、逸聖雖嫡嗣、而威明不及婆娑、

 遂立之。

 婆娑節儉省用而愛民、

 國人嘉之。

 (訳文)

 婆娑尼師今が立った。

 儒理王の第二子(あるいは儒理の弟の奈老の子とも)。

 妃は金氏の史省夫人。

 許婁葛文王の娘である。

 初め脱解が薨じた。

 幕僚たちは儒理の太子の逸聖を擁立しようとした。

 あるいは逸聖は嫡嗣ではあるが、威明が婆娑には及ばず、

 遂にこれを擁立したという。

 婆娑は倹約して費用を省き、民を愛したので、

 国人はこれを称賛した。


 (原文) 

 六年春正月、百濟犯邊。二月、以吉元為阿飡。

  夏四月、客星入紫微。

 八年秋七月、下令曰

  「朕以不徳、有此國家、西鄰百濟、南接加耶、

   徳不能綏。威不足畏。

   宜繕葺城塁。以待侵軼」。

  是月、築加召馬頭二城。

 十五年春二月、

  加耶賊囲馬頭城、遣阿吉元、

  将騎一千撃走之。

  秋八月、閲兵於閼川。

 十七年秋七月、暴風自南、抜金城南大樹。

  九月、加耶人襲南鄙、

  遣加城主長世拒之、為賊所殺。

  王怒率勇士五千、出戰敗之、虜獲甚多。

 十八年春正月、

  擧兵欲伐加耶、

  其國主遣使請罪、乃止。

 (訳文)

 六年(85年)春正月、百済が辺境を侵す。二月、吉元を阿飡にした。

  夏四月、客星(彗星)が天帝の紫微宮に侵入した。

 八年(87年)秋七月、命令を宣下して曰く

  「朕は不徳なれども、ここに国家あり、

   西隣りは百済、南は加耶に接している。

  (朕の)徳では鎮撫できず、

  (朕の)威光では畏服させるには足らない。

   そこで、城郭や土塁を修理し、大々的な侵攻に備えよ」。

  この月、加召、馬頭の二城を築いた。

 十五年(94年)春二月、

  加耶の賊が馬頭城を包囲したので、阿吉元を送って、

  騎兵一千を率いて攻撃、これを敗走させた。

  秋八月、閼川で閲兵式を行なう。

 十七年(96年)秋七月、暴風が南から襲来、

  金城の南の大樹が引き抜かれた。

  九月、加耶人が南の辺境を襲撃したので、

  加城主の長世を派遣して防戦させたが、賊に殺された。

  王は怒り、勇士五千人を率いて出撃し、

  これを負かして、甚だ多くの捕虜を獲得した。

 十八年(97年)春正月、

  兵を挙げて加耶を征伐しようとしたが、

  そこの国主が使者を送って来て謝罪を請うたので、中止した。


 ※「加耶(かや)」
 
  何度も加耶の名が登場するが、

  加耶とは、

  伽耶(カヤ)、伽羅・迦羅(カラ)、加洛・駕洛(カラク)

  とも表記される。

  いつの時代から存在したのかは不明だが、

  三国魏時代(三世紀中頃)には、弁辰(弁韓)には

  十二国あったと魏志は記している。

 ※出典:新羅の歴史

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年10月19日日曜日

三國史記 卷第一 新羅本紀第一 婆娑尼師今


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪婆娑尼師今≫(在位 80年-112年)

 三國史記 卷第一 新羅本紀第一 婆娑尼師今(原文)

 婆娑尼師今 立 儒理王第二子也 【或云儒理弟奈老之子也】 妃金氏史省夫人 許婁葛文王之女也 初脱解薨 臣僚欲立儒理太子逸聖 或謂 逸聖雖嫡嗣 而威明不及婆娑 遂立之 婆娑節儉省用而愛民 國人嘉之

 二年 春二月 親祀始祖廟 三月 巡撫州郡 發倉賑給 慮獄囚 非二罪悉原之

 三年 春正月 下令曰 今倉廩空匱 戎器頑鈍 儻有水旱之災 邊鄙之警 其何以禦之 宜令有司 勸農桑 練兵革 以備不虞

 五年 春二月 以明宣爲伊 允良爲波珍 夏五月 古抒郡主獻靑牛 南新縣麥 連 大有年 行者不糧

 六年 春正月 百濟犯邊 二月 以吉元爲阿 夏四月 客星入紫微

 八年 秋七月 下令曰 朕以不德 有此國家 西鄰百濟 南接加耶 德不能綏 威不足畏 宜繕葺城壘 以待侵軼 是月 築加召・馬頭二城

 十一年 秋七月 分遣使十人 廉察州郡主 不勤公事 致田野多荒者 貶黜之

 十四年 春正月 拜允良爲伊 啓其爲波珍 二月 巡幸古所夫里郡 親問高年賜穀 冬十月 京都地震

 十五年 春二月 加耶賊圍馬頭城 遣阿吉元 將騎一千撃走之 秋八月 閲兵於閼川

 十七年 秋七月 暴風自南 拔金城南大樹 九月 加耶人襲南鄙 遣加城主長世拒之 爲賊所殺 王怒率勇士五千 出戰敗之 虜獲甚多

 十八年 春正月 擧兵欲伐加耶 其國主遣使請罪 乃止

 十九年 夏四月 京都旱

 二十一年 秋七月 雨雹 飛鳥死 冬十月 京都地震 倒民屋有死者

 二十二年 春二月 築城名月城 秋七月 王移居月城

 二十三年 秋八月 音汁伐國與悉直谷國爭疆 詣王請決 王難之 謂 金官國首露王 年老多智識 召問之 首露立議 以所爭之地 屬音汁伐國 於是 王命六部 會饗首露王 五部皆以伊爲主 唯漢祇部 以位卑者主之 首露怒 命奴耽下里 殺漢祇部主保齊而歸 奴逃依音汁伐主鄒干家 王使人索其奴 鄒不送 王怒 以兵伐音汁伐國 其主與衆自降 悉直・押督二國王來降 冬十月 桃李華

 二十五年 春正月 衆星隕如雨 不至地 秋七月 悉直叛 發兵討平之 徙其餘衆於南鄙

 二十六年 春正月 百濟遣使請和 二月 京都雪三尺

 二十七年 春正月 幸押督賑貧窮 三月 至自押督 秋八月 命馬頭城主 伐加耶

 二十九年 夏五月 大水 民飢 發使十道 開倉賑給 遣兵伐比只國・多伐國・草八國并之

 三十年 秋七月 蝗害穀 王遍祭山川 以祈禳之 蝗滅 有年

 三十二年 夏四月 城門自毀 自五月至秋七月 不雨

 三十三年 冬十月 王薨 葬蛇陵園内

 ※出典:古代史獺祭

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976




 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等

 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年10月17日金曜日

知覧こそ古新羅の”鶏林”


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪知覧こそ古新羅の”鶏林”≫

 この笠狭にあたる笠沙町は、

 古来のものかどうか不明だったものを、

 ある町長が強引に町名を変えたといういきさつがあって、

 信頼度は低いとされてきた。

 しかし阿珍浦も、

 阿を<オ>、

 珍を<ウヅ>と読むと、オウ津浦となり、

 笠沙半島のつけ根にある大浦と合う。

 こうした一致は偶然には起こらないから、

 町名は正しく伝承どおりに復元されていたとしていい。

 この笠沙、加世田の東に、知覧という町がある。

 茶と特攻隊基地で全国的に知られた所である。

 これを<シラン>と読んでみると紫卵と同音になり、

 <シラヌ>すなわち「斯羅の」国に一致する。
 
 遺事』の始祖王の条にはもう一つの「斯盧」という別名も出ている。

 素菟は素が<シロ>だったし、白日別と書くとシロの日の別国で、

 不知火の<シラヌヒ>、白縫<シラヌイ>も白ヌ日に対する

 当て字とみて間違いない。

 では始林がどうして鶏林に変わったか、

 その変化のシステムを解析してみよう。

 鶏は

 漢音<ケイ>、

 韓音<キェ>、

 江南音<チー>である。」

 始<シ>から鶏<チー>へ変化したとみると、

 これは江南系の発音をもった人々が入ったために、発音変化が起こり、

 それにともなって当て字も変化したとみるのが常識的である。

 私たちはすでに、<キ>を<チ>と発音する沖縄系の人々が、

 この新羅建国の主流だったことを見てきた。

 私たちがいま支那(シナ)と発音する文字は秦に対する当て字で、

 沖縄の人々はこれらの<シン>を<チヌ>と発音する。

 それは北上につれて<シヌ>となり<ヒノ>になる。

 <シラギ>とは日羅郡であり日の国である。

 こうみてくると知覧は日羅ヌ国であって、

 大阪をはじめ全国に多い「平野」と同名だったということになる。

 というより、それらの地名のルーツがここにあり、

 それが一方では「日本」という国名に育ち、

 一方では「新羅」という国名に変わって途中で消えた。

 しかし人々は全滅したわけではない。

 <ヒラ>、<シテ>、<キラ>といった発音で、

 地名に、姓に生き残っているのである。

 知覧には予想どおり豊玉姫を主神に、

 日子火火出見尊、豊玉毘古命、玉依昆売命を祭る豊玉姫神社があり、

 姫の御陵地として古来農耕を禁じられている伝説地がある。

 『記・紀』では姫は竜になった姿を見られて子供だけを残して、

 海の彼方に去ったことになっている。

 だから知覧に御陵があるという考え方は、

 『記・紀』の知識を利用して自分たちの町を

 有名にしようとしたものとは考えられない。

 今、日韓の古史を発掘し、言語を復元して、

 私たちが事実を知るまではだれ一人

 知覧と日本と新羅とを結びつけて考えた人はけなかったのである。

 しかし、鶏林と新羅の間に知覧をはさまないと

 なぜ鶏林が新羅になったかが理解できないのである。

 伝承はさまざまに誤解され続けて変型しながらも、

 伝えるべきものは伝えてきた。

 玄海の荒海にへだてられて、北と南に分かれ分かれて、

 互いの素性もわからなくなった新羅と日本で、

 やはり竜が子を産みそれが始祖となった物語で、

 伝承がどんなに分裂し変型していくかを教えるかのように……。

 紙数の制限がなければ、知覧の伝承をさらに紹介したいが、

 それは後著に譲り、

 ここでは知覧について実に多くを教示してくれた友、

 横井隆一郎氏に厚くお礼申し上げる。

 <笠狭の岬と宮の山由緒書き>

 皇孫瓊瓊杵(ににぎ)の尊(みこと)が宮居を定むべき地を探し求めて

 吾田(あた)の長屋(ながや)の笠沙の碕(みさき)においでになり

 塩土(しおつち)の翁(おきな)から領有地の献上を受けられ

 「ここは韓国(からくに)に向かい朝日の直刺(たださ)す国、

  夕日の火照(ひて)る国なり、いとよきところ」

 と木花開耶姫(このはなさくやひめ)を妃(ひ)とせられ、

 ここに宮居を定められた。

 神代笠沙宮の古址を伝えられる。

 (笠沙町観光協会)

 <開聞岳と知林ケ島(右中央の島)と枚聞神社>

 ※出典:KOFUN・172~175頁


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『堀貞雄の古代史・探訪館
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ