2014年10月4日土曜日

『三国遺事』第二南解王

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪第二南解王≫

 (原文)

 南解居西干。亦云次次雄。是尊長之稱。

 唯此王稱之父赫居世。母閼英夫人。

 妃雲帝夫人

 (一作雲梯。今迎日縣西有雲梯山聖母。祈旱有應)。

 前漢平帝元始四年甲子、即位。

 御理二十一年。

 以地皇四年甲申崩。

 (訳文)

 南解居西干。次次雄ともいう。これは尊い長の称である。

 この王が称する父は赫居世。母は閼英夫人。

 妃は雲帝夫人

 (雲梯ともいう。今、迎日県の西の雲梯山に聖母がおり、

  雨乞いの祈願に応じてくれる)。

 前漢の平帝の元始四年(西暦4年)甲子に即位。

 治世は二十一年。

 地皇四年(23年)甲申に崩御した。

 (原文)

 此王乃三皇之弟、

 一云。按三國史云、新羅稱王曰居西干、辰言王也。

 或云、呼貴人之稱。

 或曰:次次雄。或作慈充。

 金大問云、次次雄方言謂巫也。

 世人以巫事鬼神尚祭祀、

 故畏敬之、遂稱尊長者為慈充。

 (訳文)

 この王は三皇の弟とも言われる。

 三国史記によれば「新羅では王の称号を居西干という。

 辰韓の言葉なり」。

 あるいは言う「貴人の呼称」。

 あるいは曰く「次次雄。あるいは慈充とも記す」。

 金大問が言うには「次次雄は方言で巫を言うのである。

 世人は巫を以て鬼神に仕え、祭祀を重んじる故に、

 これを畏敬し、遂に尊い首長を慈充と称するようになった」。

 (原文)

 或云、尼師今。言謂齒理也。

 初南解王薨。子弩禮讓位於脱解。

 解云、吾聞聖智人多齒。

 乃試以餅噬之。

 古傳如此。

 或曰:麻立干(立一作袖)。

 金大問云。麻立者、方言謂橛也。

 橛標准位而置。

 則王橛為主、臣橛列於下、

 因以名之。

 (訳文)

 あるいは言う「尼師今とは、歯並びを言う方言である。

 初め南解王が薨じると、子の弩禮が脱解に讓位した。

 脱解は「私は聖人賢者には歯が多いと聞きました。

 そこで、餅で試して占いましょう」。

 古伝はこのように伝えている。

 あるいは曰く「麻立干(立は袖とも)」。

 金大問が言うには「麻立者とは、方言で橛(短い杭)を言うのである。

 杭は規準の位置に設置する。

 そこから王は規準の中核とし、臣の序列は下に置く。

 因って、これを名とした」。

 (原文)

 史論曰:新羅稱居西干。

 次次雄者一。尼師今者十六。

 麻立干者。

 四羅末名儒崔致遠作帝王年代曆。

 皆某王。不言居西干等。

 豈以其言鄙野不足稱之也。

 今記新羅事。具存方言亦宜矣。

 羅人凡追封者稱葛文王。未詳。

 此王代樂浪國人來侵金城。不克而還。

 又天鳳五年戊寅。高麗之裨屬七國來投

 (訳文)

 史論に曰く「新羅は居西干と称する。

 次次雄(の称号)は一代、尼師今(の称号)は十六代。

 麻立干者。

 新羅末期の名儒「崔致遠」が帝王年代暦を作ったが、

 皆が某王と称し、居西干などと言わない。

 どうもその田舎言葉では称号に不足だったのである。

 今、新羅の事情を記したが、ともに方言だとするのが宜しい。

 羅人は凡そ追封した者を葛文王と称したようだが、未詳である。

 この王の代に楽浪国人が金城に侵攻してきたが、勝てずに帰還した。

 また、天鳳五年(18年)戊寅。高麗の付属七国が投降してきた。

 ※出典:新羅の歴史

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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