2014年10月10日金曜日

第四代・脱解尼師今(3)

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 『三国史記』新羅本紀

 ≪第四代 脱解尼師今(在位 57年-80年)≫

 ◎『後漢書』倭人伝

 (原文)

 建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。

 使人自稱大夫。

 倭國之極南界也。光武賜以印綬。

 五年秋八月、馬韓将孟召、以覆巖城降。

 七年冬十月、百済王拓地、至娘子谷城。

 遣使請会、王不行。

 八年秋八月、百済遣兵、攻蛙山城。

 冬十月、又攻狗壌城、王遣騎二千、撃走之。

 (訳文)

 建武中元二年(57年)、倭奴国が謹んで貢献して朝賀した。

 使者は大夫を自称した。

 (奴国は)倭国の極南界である。光武帝は印綬を賜う。

 五年(61年)秋八月、馬韓の孟召将軍が覆巌城で降伏した。

 七年(63年)冬十月、百済王が領土を広げ、娘子谷城にまで至る。

 遣使が会談を請うが、王は行かなかった。

 八年(64年)秋八月、百済が兵を送り込んで蛙山城を攻撃。

 冬十月、また狗壌城を攻撃してきたので、

 王は騎兵二千を派遣して、これを撃ち敗走させた。

 (原文)

 九年春三月、王夜聞、金城西始林樹間、

 有鶏鳴聲。遅明遣瓠公視之。

 有金色小、掛樹枝、白鶏鳴於其下。

 瓠公還告、王使人取開之。

 有小男児在其中、姿容奇偉、

 上喜謂左右曰「此豈非天遺我以令胤乎」。

 乃収養之。

 及長聡明多智略、乃名閼智、

 以其出於金、姓金氏。

 改始林名鶏林、因以為國號。

 (訳文)

 九年(65年)春三月、

 王は夜、金城西の始林の木々の間から鶏の鳴声を耳にした。

 夜明けを待って瓠公を遣わし、これを視察させた。

 金色の小函が木の枝に掛かっており、白い鶏がその下で鳴いていた。

 瓠公が帰還して報告すると、王は人に取りに行かせ、小函を開けた。

 小さな男児がその中にいた。

 容姿は大変立派で、

 王は喜んで左右の臣に曰く

 「これはきっと天神が私に後胤として授けたに違いない」。

 そこで、収容して養育した。

 成長すると聡明で智略に富んでいたので、閼智と名付けた。

 彼が金の函から出てきたので、姓を金氏とした。

 始林を鶏林と改名し、因って国号と為した。

 (原文)

 十年、百濟攻取蛙山城、

 留二百人居守。尋取之。

 十一年春正月、

 以朴氏貴戚、分理國内州郡。

 號為州主、郡主。

 二月、以順貞為伊伐委以政事。

 十四年、百濟来侵。

 十七年、

 倭人侵木出島、王遣角干羽烏、

 禦之。不克。

 羽烏死之。

 (訳文)

 十年(66年)、百済が蛙山城を攻め取り、

 守備のため二百人を留めたが、取り返した。

 十一年(67年)春正月、

 朴氏は貴い外戚なので、国内の統治を州郡で分けた。

 州主、郡主と号するようにした。

 二月、順貞を伊伐と為し、政事を委ねた。

 十四年(70年)、百済が侵攻して来た。

 十七年(73年)、

 倭人が木出島に侵入したので、王は角干の羽烏を送って、

 これを防衛させたが、勝てなかった。

 羽烏はここで戦死した。


 (原文)

 十八年秋八月、

 百濟寇邊、遣兵拒之。

 十九年、

 大旱。民饑。發倉賑給。

 冬十月、百濟攻西鄙蛙山城、抜之。

 二十年秋九月、

 遣兵伐百濟、復取蛙山城。

 自百濟来居者二百餘人。盡殺之。

 (訳文)

 十八年(74年)秋八月、

 百済が辺境で寇盗するが、兵を送ってこれを阻止した。

 十九年(75年)、

 大旱魃で民は飢餓状態となったので、食糧倉を開いて存分に与えた。

 冬十月、百済が西鄙の蛙山城を攻撃し、これを抜いた(敗った)。

 二十年(76年)秋九月、

 派兵して百済を討伐し、再び蛙山城を取り返した。

 百済からの移住者二百余人を虐殺した。


 (原文)

 二十一年秋八月、

 阿吉門與加耶兵、戦於黄山津口、獲一千餘級。

 以吉門為波珍賞功也。

 二十三年春二月、慧星見東方。又見北方、

 二十日乃滅。

 二十四年夏四月、

 京都大風、金城東門自壊。

 秋八月、王薨。葬城北壌井丘。

 (訳文)

 二十一年(77年)秋八月、

 阿吉門は加耶兵と黄山津の川岸で戦い、獲首一千余級。

 吉門を波珍にして論功を賞した。

 二十三年(79年)春二月、慧星が東方や北方でも観測された。

 二十日で消えた。

 二十四年(80年)夏四月、

 都城で大風が暴れ、金城の東門が自壊した。

 秋八月、王が薨じた。城北の壌井丘に葬る。



 ◎『新羅神社』社伝

 社伝によれば、

 朝鮮新羅城の新良貴氏の祖神「稲飯命」

 或いは「白城宿禰」を祭るといわれているが、

 『神社誌』及び『遠敷郡誌』は

 「天日矛命の後裔が此国に留まり、

  其の遠祖である鵜茅葺不合尊、又は稲飯命を祀りしもの。

  地名のシラキは日倉族の新羅人の住みしことあるにより起り、

  その祖神を祀りしとの説がありこれに従う」としている。

 ※参考:『新羅神社』社伝
     『新羅神社』社伝

 ◎『新撰姓氏録』は

 新良貴氏を瀲武鵜葺草葺不合尊の男稲飯命の子孫とし、

 稲飯命を新羅国王の祖と伝えている。

 ※参考:新良貴氏

 『記紀』によれば、

 鵜茅葺不合尊(うがやふきあえず)は神武天皇の父とされており、

 稲飯命は神武天皇の兄に当る。

 従って、神武も新羅(加耶)国と係わりがあることになる。

 出典:堀貞雄の古代史・探訪館

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『堀貞雄の古代史・探訪館
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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