2014年10月14日火曜日

九夷、九韓


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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪九夷、九韓≫

 8世紀後半の新羅は、もう疑いもなく朝鮮半島そのものであった。

 664年に唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼし、

 さらに8年後の672年に同じ連合軍は高句麗を抹殺してしまった。

 それから一世紀後の景徳王時代は間違いなく半島に新羅はあった。

 しかし、その郡県名に、日本地名と同じものが大量にあったのである。

 そして、新羅そのものは、かつて九州に実在し、

 南から北へ移動した証跡を残している。

 これらは別に計画的に仕組まれた作りものの史書ではなく、

 相互に、相手を知らない人々が、玄海灘をへだてて、

 半鎖国の状態下にいた、双方の正史に基づく結論である。

 もちろん、

 これによって三国史記全体が絶対に信頼できるというのではない。

 それは古記録そのものではなく、後世になって編集されたもので、

 誤りも混乱もまた当然混入している。

 ことに古代部分は、『記・紀』同様神話化しており、

 卵生の王や蛙の王が登場するなど、

 伝説や伝聞の寄せ集めであることは明瞭である。

 一寸見ただけでも同一の話が、様々に分裂して、

 時代をへだてた部分に、変型して分布していることがわかるものもある。

 だが、地理的に中国と隣接していることもあって、

 その紀年はかなり、しつかりしたものになっている。

 それだけに、時代が下って8世紀後半ともなれば、

 記事も正確になり、特にいま私たちが採用した地名は、

 事実を記録していることは間違いない。

 そのことが、かえって古い部分の地名を、

 単純に半島と大陸にあったように考えさせ、

 それが先入感となって固定してしまい、

 私(加治木義博)が気づくまで誰一人この真相を見抜くことも、

 考えることもできなかったのである。

 とはいっても、古記録の主要な地名が、鮮満地方のどこであるか、

 いまだに全然わからないという現実は、

 様々な史書の著者や研究者たちの共通の悩みであったことは、

 さきにも見たとおりである。

 それらの中には、

 三韓が日本で発生しても不思議ではないという事実を

 明らかにしているものもある。

 その一例を御覧に入れよう。

 『三国遺事』第一の馬韓の項には、

 崔致違(チョイチェン)(人名)言う。

 「馬韓は高句麗であり、辰韓は新羅である」とか、

 「四夷。九夷、九韓、穢貊(ワイパク)というのは

  周礼職方氏が支配していた四夷、九貊で、

  東夷と呼ばれる種族、すなわち九夷のことである」とか、

 淮南子(エナソジ)の注によれば

 「東方の夷人には九種類ある」とか書いてある。

 では九夷とはどんなものか、というと、

 論語正義によれば、

 「一、玄菟。二、楽浪。三、高麗。四、満飾。五、鳧曳。

  六、素家。七、東屠。八、倭人。九、天鄙」であるといい、

 海東安弘記によれば、九韓は、

 「一、日本。二、中華。三、呉越。四、乇羅。五、鷹遊。

  六、靺鞨。七、丹国。八、女真。九、穢貊」だという。

 見る者と、時代によって様々であるが、

 それらはやはり根拠があってのことであって、

 時と共に内容や名称が変るのは当然のことなのである。

 しかしここでは難かしく取る必要はない。

 天鄙という聞きなれない種族があることは、あるいは天孫族が、

 倭人の他に存在していたものとして、

 中国に知られていた時期があったとも考えられるし、

 九韓の中に、中華が含まれ、呉越が分離され、

 宅羅という変った用字や、丹という独立した国が

 数えられている点など、なかなか面白く感じる。

 従来は夷とか胡(コ)とか狄(テキ)とかは、

 中国人による蔑称だとする考え方が支配的であったが、

 それは研究すればする程、単なる分類上の名称であって、

 別に蔑視から生れたものではないことが明らかになる。

 韓もまた同様で、その中に中華が含まれていることが、

 何よりの証拠である。

 そして韓人も日本人も共に夷人の一集団に過ぎないことを、

 古人は現代人よりも、よく知っていた。

 それは血液で知っていた、というべきであろう。

 ※出典:異説・日本古代国家・271~273頁


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『堀貞雄の古代史・探訪館
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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