2014年10月6日月曜日

第三代・儒理尼師今(4)

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪第三代 儒理尼師今(在位 24年-57年)≫

 『三国史記』新羅本紀

 (原文)

 十七年秋九月、

 華麗不耐二縣人連謀、

 率騎兵犯北境。

 貊國渠帥、以兵要曲河西敗之。

 王喜与貊國結好。

 (訳文)

 十七年(40年)秋九月、

 華麗と不耐の二県の人々が共謀して、

 騎兵を率いて北の国境を侵犯した。

 貊国の渠帥(りょうすい=首領)が

 出兵して曲河の西で要撃(待ち伏せ)してこれを敗る。

 王が喜んで濊貊と友好を結んだ。

 ※「貊国」

  ツングース語系諸族に詳細を記載したが、

  扶余・高句麗・沃沮・濊貊は穢系部族連合の同族で、

  古代には「濊・貊・貉」とも呼ばれたが、

  上記の不耐県は濊貊の所領地であり、

  濊貊の国王は「不耐濊侯」と称された。

  従って、貊国が濊貊を指しているのであれば、

  新羅(この当時は辰韓)の味方をして、

  自国の不耐県の兵士を攻めることは考えられない。

  貊には大熊猫(パンダ)の意味もあり、

  新羅本紀は半島の山岳狩猟部族を適当に貊国と名付けて記載した、

  あるいは儒理尼師今が曲河で濊貊の軍勢に和議を願ったことを、

  その立場を逆転させて記録したのかもしれない。


 (原文)

 十九年秋八月、貊帥獵得禽獸獻之。

 三十三年夏四月、龍見金城井、有頃、暴雨自西北来。

 五月、大風抜木。 

 (訳文)

 十九年(42年)秋八月、

 貊国の渠帥が狩猟で獲得した禽獣を献じた。

 三十三年(56年)夏四月、

 龍が金城の井戸に現れ、同時に暴風雨が西北より到来した。

 五月、大風で木が抜けた。

 ※不思議な文章である。

  龍の出現は吉兆、暴風雨の到来は凶兆。

  そして、

  木が抜けるとの表現は国王の死去(殺害)を象徴する場合が多い。

  ここから推測すると、新たな王が西北から現れ、現国王は殺された、

  あるいは退位を強制されたことになる。

 (原文) 

 三十四年秋九月、王不豫。

 謂臣寮曰:脱解身聯國戚、

 位處輔臣、屡著功名。

 朕之二子、其才不及遠矣。

 吾死之後、即大位、

 以無忘我遺訓。

 冬十月、王薨。葬蛇陵園内。

 (訳文)

 三十四年(57年)秋九月、王は不快。

 臣下らに向かって「脱解は身分は外戚に連なり、

 位は大輔の臣、何度も著しい功名をあげている。

 朕の二子は、その才能は遠く及ばない。

 朕の死後、王に即位させるがよい。

 朕の遺訓を忘れてはならない」と言った。

 冬十月、王が薨じた。蛇陵の園内に葬った。

 ※出典:新羅の歴史

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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