2014年10月12日日曜日

『阿珍浦伝説』民間伝承2


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 『阿珍浦伝説』民間伝承2

 赫居世の子、南解王の時代のこと。

 下西知村の阿珍浦という海辺の近くに

 阿珍義先という名の老婆が住んでいた。

 彼女は王に魚を献上する役目の漁師の母だった。

 ある日、その老婆が海辺に行くと、大きな岩があり、

 その上に無数の鵲(カササギ)が群れていた。

 老婆が不思議に思って岩に近づいてみると、

 岩に見えたのは大きな船で、

 その船には長さ二十尺、幅十三尺の箱が一つ置いてあった。

 そこで、その船を曳航して林の木につなぎ、

 なにが入っているのか不安なので天にお祈りをしてから開けてみた。

 なんと箱の中には綺麗な男の子と、

 彼の召使や様々な宝物が満載になっていた。

 男の子の話では

 「私は龍城国の王子で、

  龍城国はここから遙かに遠い日本の北東一千里にあります。

  私の国には二十八人の龍王がおり、みんな人間から産まれましたが、

  幼少時から王位を継ぎ、万民を導きます。


  八つの官位があり、みんなが王位に登れます。

  私の父である含達婆王は積女国の姫を妃に迎えましたが、

  長い間、子供が授からず、子宝に恵まれるようにと祈願しました。

  そして、七年後に母は大きな卵を一つ産みました。

  私はそこから生まれたのです。

  父王は群臣を集めて相談し、人が卵を産むなど不吉なことだと言って、

  箱を作って、その中に私と召使と様々な宝を入れ、

  それを船に積んで海に流しました。

  その際、どこか因縁のある場所に行って、

  自分の国を建てなさいと言いました。

  すると突然、赤い龍が現れて船を護衛し、ここに流れ着いたのです」

 と言った。

 男の子は脱解と名乗った

 (一説では、箱を解き、卵の殻を脱したことに由来する)。

 そして、話し終えると、脱解は杖をついて二人の召使を引き連れ、

 吐含山に登り、そこに石塚を作って、七日間暮らしながら、

 自分の住むに相応しい場所を物色していた。

 ある峰を見ると、そこは三日月の形をしており、

 家運が栄える地勢だった。

 けれども、そこには既に瓠公の家があった。

 瓠公という人物は赫居世の時代から王に仕える重臣で、

 噂では日本人だと言われていた。

 その血筋や素性はまるで分からないが、

 瓠(ヒョウタン)を腰に下げて海を渡ってきたので

 「瓠公」と呼ばれるようになった。

 脱解は一計を案じ、ある夜、瓠公の家の側に内緒で砥石と炭を埋めた。

 そして、夜が明けると、その家の前で

 「ここは私の祖先の家です。

  私が住むべき家です。早く出て行ってください」と騒いだ。

 当然、瓠公は「違う、ここは私の家だ」と反論した。

 口論になり、「出る所に出て話を着けよう」ということになり、

 役所に訴えたので、役人は脱解に訊いた。

 「お前は、どんな根拠があって、ここがお前の家だと言うのだ」

 「私の家は以前は鍛冶屋でしたが、しばらく隣村に行っている間に、

  なんとしたことか他人に家を盗られたのです。

  ここを掘ってみてください」と言った。

 役人が言われた場所を掘ってみると、砥石と炭が出てきた。

 「見て下さい。これが、ここが元々鍛冶屋であった証拠です」

  役人は、これを証拠として瓠公の方が家泥棒だと判決したので、

 まんまと脱解は瓠公の家屋敷を奪ってしまった。

 このように脱解はとんでもない詐欺師だったが、

 何故かこの当時は「素晴らしい知恵者」として評判になったようで、

 彼の評判を聞きつけた南解王が、彼を自分の長女の婿に迎え、

 大輔(宰相)の位を与えたのである。

 南海王の死後、王の子の弩禮(儒理)が王位を継いだが、

 彼は「自分より脱解の方が優れている」と言って、

 執拗に王位を譲ろうとし、

 自分が死ぬときには「自分の子よりも脱解の方が優れている。

 だから脱解を次の王にせよ」と遺言した。

 そんなことから、弩禮王が亡くなると、

 脱解が第四代の新羅王に就いたとされる。

 それは今を去ること西暦五十七年のことである。

 姓は「昔」と定めた。

 「昔、人の家を奪ったから」あるいは

 「鵲のおかげで箱が発見されたのだから、

  鵲の字から取って、昔姓にしたのだ」とも言われる。

 脱解は治世23年に亡くなったが、

 それから二十七代目に当たる王のときのこと。

 王の夢に厳めしい老人が現れ、自分は脱解と名乗り、

 「余の遺骨を掘り出して塑像にし、吐含山に安置せよ」と命じた。

 言葉に従って、掘り出された遺骨は分散しておらず、

 完全な形を保っており、立派だった。

 遺骨を砕いて作られた塑像は山に安置され、

 脱解は東岳神と呼ばれて祀られるようになった


 出典:堀貞雄の古代史・探訪館

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『堀貞雄の古代史・探訪館
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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