2014年10月6日月曜日

第三代・儒理尼師今(2)

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪第三代 儒理尼師今(在位 24年-57年)≫

 『三国史記』新羅本紀

 (原文)

 二年 春二月 親祀始祖廟 大赦


 (原文)

 五年冬十一月、王巡行國内、

 見一老嫗飢凍将死。

 曰:予以眇身、居上。不能養民、

 使幼至於此極、是予之罪也。

 解衣以覆之。推食以食之。

 仍命有司、在處存問、

 鰥寡孤獨、老病不能自活者、給養之。

 於是、鄰國百姓聞而来者衆矣。

 是年、民俗歡康、始製兜率歌。

 此歌樂之始也。


 (訳文)

 五年(28年)冬十一月、王が国内を巡幸していて、

 一人の老婆が飢えと寒さで死にかけているのを見た。

 曰く「余は微小ながら王位に在る。民を養うことも能わず、

 か弱い者をこのような極限に至らしめている。これは余の罪である」。

 王は衣服を解いて老婆を覆い、食事を推し進めて老婆に食べさせた。

 すぐに役人に命じて、在所を訪問させ、

 鰥寡(やもめ)や孤児、老人、病人で自活不能な者達に、

 栄養を供与させた。

 ここに於いて、鄰国の百姓が耳にし、移住して来る者が多数いた。

 この年、民衆の生活は歓びに満ち健やかとなり、初めて兜率歌を作った。

 これが歌楽の始まりである。

 ※「兜率歌」

  四句體の鄕歌には

  「薯童謠、風謠、献花歌、兜率歌」があるが、

  なかでも兜率歌は梵唄であり、

  唐風・郷風(新羅風)・

  日本風(隋唐以前に朝鮮半島を経て日本に渡った古風)がある。

  ただし、鄕歌の多くが七世紀以降に創作されたものである。

  『三国遺事』は「景徳王十九年(761年)四月、

  太陽が二つも現れて十日間も消えなかったことがあった。

  天の異変は地の政治の異変につながる。

  王は早速、僧侶の月明を呼んだ。

  そして、月明が天変の祓いをするため、郷歌の兜率歌を作り、

  散華の供養をしたところ、元に戻った」と記述している。

  第十七代の奈勿尼師今(在位356-402年)の時代から、

  新羅は歴史時代に入るとされることから、

  三国史記が記載する奈勿以前の歴代王の事跡を

  一々指摘しても余り意味がないが、

  歴で十二巡(60×12=720年)以上の格差があることは

  留意すべきだろう。


 (原文)

 九年春、改六部之名、仍賜姓。

 楊山部為梁部、姓李。

 高墟部為沙梁部、姓崔。

 大樹部為漸梁部、一云牟梁、姓孫。

 干珍部為本彼部、姓鄭。

 加利部為漢祇部、姓裴。

 明活部為習比部、姓薛。

 (訳文)

 九年(32年)春、六部の名を改めるを以て、姓を賜る。

 楊山部を梁部、姓は李。

 高墟部を沙梁部、姓は崔。

 大樹部を漸梁部、一説には牟梁、姓は孫。

 干珍部を本彼部、姓は鄭。

 加利部を漢祇部、姓裴。

 明活部を習比部、姓は薛とした。

 ※(三国遺事では下表の通り)

 六村      村長    六部            六姓

 閼川の楊山村  謁平    及梁部(後の中興部)    李氏の祖

 突山の高墟村  蘇伐都利  沙梁部           鄭氏の祖

 茂山の大樹村  俱(仇)禮馬 漸梁部・牟梁部(今は長福部)孫氏の祖

 觜山の珍支村  智伯虎   本彼部(今は通仙部)    崔氏の祖

 金山の加利村  祇沱(只他) 漢岐部・韓岐部(今は加德部)斐氏の祖

 明佸山の高耶村 虎珍    習比部(今は臨川部)    薛氏の祖


 (原文)

 又設官有十七等。

 一伊伐飡、

 二伊尺飡、

 三迎飡、

 四波珍飡、

 五大阿飡、

 六阿飡、

 七一吉飡、

 八沙飡、

 九級伐飡、

 十大奈麻、

 十一奈麻、

 十二大舍、

 十三小舍、

 十四吉士、

 十五大烏、

 十六小烏、

 十七造位。

 王既定六部、中分為二、

 使王女二人、

 各率部内女子、分朋造黨。

 (訳文)

 また、官位に十七等級を設けた。

 一は伊伐飡、

 二は伊尺飡、

 三は迎飡、

 四は波珍飡、

 五は大阿飡、

 六は阿飡、

 七は一吉飡、

 八は沙飡、

 九は級伐飡、

 十は大奈麻、

 十一は奈麻、

 十二は大舍、

 十三は小舍、

 十四は吉士、

 十五は大烏、

 十六は小烏、

 十七は造位。

 王は六部を定めた後、部内を二分し、

 二人の王女に各々部内の女子を統率させ、

 朋輩を分けて党を結成させた。

 ※「花郎の徒」

  王女に女子を統率させたとあるが、

  倭国でも戦争に女軍(めいくさ)が随行している。

  霊媒や巫術を行なう神職者を巫覡(ふげき)といい、

  女性を巫「め(女)かんなぎ」と呼び、

  男性を覡「お(男)かんなぎ」と呼ぶ。

  そして、この女軍とは戦闘部隊ではなく、

  巫(めかんなぎ)の呪術者の集団のこと。

  ただ、新羅の女子軍は後に

  「花郎(カラン)の徒」と呼ばれる

  美少年を集めたエリート集団の前身ではないかと思われる。

 ※『花郎と尚武精神』建国大教授シン・ボンニョン

  最初の花郎は源花(ゲンカ)と呼ばれ、

  彼女達の仕事は、

  旧盆の時に徐羅伐に女たちが集まって組を分けて機織の賭けをしたが、

  その村祭のリーダー的存在だった。

  初めて源花になった人は南毛と俊貞という「二人の女性」であった。

  そのような村祭が国家的行事に地位を取られ、

  規模も拡大されるに従い源花は花郎という名称に変わった。

  ただし、源花が花郎に変化しても花郎は女性だったという事実。

  また、三国遺事の原本に於いては花郎が「花郎」ではなく、

 「花娘」と記録されているという事実に留意が必要である。

  上記の解説から、

  二人の王女が統率した女性の徒党とは

  「源花」の発展した「花娘」のことだと推察されるが、

  王女とは斎女王(いつきのみこと)を指すのであれば

  倭国の女軍と同様だったとも考えられる。

 ※出典:新羅の歴史

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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