2014年10月16日木曜日

地名は史実を裏づける


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪地名は史実を裏づける≫

 同じく『遺事』の脱解王の条をみると

 「船は飛ぶように走って、鶏林の東下西知村の阿珍浦に着いた」とある。

 これも『史記』よりずっと詳しくなっている。

 そして「船の中には長さ20尺、幅13尺の箱が一つあった。

 -中略-

 開けてみると端正な男子が七宝や家臣、侍女を満載した中にいた。

 食物を与えること7日。

 やっと次のように話し。」

 「私は竜城国人です。

  私の国には、かつて28竜王が居り、

  人のおなかを借りて生まれました。

  皆5~6歳で王位に即き、万民を教育し、

  性質や運命を良くしてきたのです。

  -中略-

  私の父王は含達婆(カンタチバ)で、

  積女国の王女を妃としましたが、

  いくら経っても子どもができません。

  そこで祈祷(きとう)をして7年後、

  生まれたのは一個の大きな卵でした。

  大王は群臣に

  『人でありながら卵を生むというのは未曽有のことである。

   国にとって不吉なしるしだと思う』といい、

  箱を造らせて卵を置き、さまざまな宝や家臣たちを舟にのせ、

  海に浮かべて祈って

  『縁があったらどこか良い所檻着くであろうから運命に任せよう。

   そこに国を立て家系を築いてくれ』

  といいました。

  幸い赤竜がずっと護ってくれたお蔭で、

  ここへ着くことができたのです」

 この話になると、

 家来を引きつれて天降ったニニギの尊の天孫降臨と

 だいぶ近くなってくる。

 到着点もよく似ている。

 また『ヒミコ』などでお話しした「オオヒルメ」の話そっくりだ。

 ニニギの尊は『書紀』の一書によると、

 高千穂からさらに、吾田の長屋の笠狭(かささ)の御崎(みさき)に行く。

 阿珍と吾田は、田を都という字におきかえると、

 <チ>という、沖縄音が出てきて、

 吾都の、は<アチヌ>とも<アタノ>とも読めることになる。

 下西知もまた笠狭と変わることのできる

 <カサチ>、<カサシ>の関係にある。

 さらにこの下西知は<チ>を都の字でおきかえると<カセタ>となり、

 笠狭の東隣の加世田と同音になるが、ここは<アダ>の中心地である。

 また笠狭には高崎鼻という岬があるが、東下西知は<トカサチ>。

 <ト>に都。<チ>を沖縄音とみて支の字におきかえれば、

 都下西支は<トカシキ>とも<タカサキ>とも読める。

 渡嘉敷と高崎だ。

 地名はこんなふうに現在では幾種類にも分化して、

 それぞれの土地で固有名詞化しているが、

 もともとは一つの地名から分かれたものだったことが

 おわかりいただけると思う。

 <赫居世国(カゴシマ)建国当時の新羅と百済(3世紀後半)>

 新羅は張政の女王国にあたる領域

 ◇任那:三股

 ◇新羅

  姫木

  知覧

  枚聞神社(新羅王神社)


 ◇百済

 ※出典:KOFUN・169~171頁


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『堀貞雄の古代史・探訪館
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年10月15日水曜日

『三国遺事』の始祖伝説”異説”


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪『三国遺事』の始祖伝説”異説”≫

 新羅の場合はさらに、

 もっと直接的な出身地証明がある。

 始祖王・赫(かく)居世の時の大臣はさきにも話した瓠公だが、

 彼以外の家臣の名は出てこないから、

 彼が最高の地位にいたことは間違いない。

 この人物は『三国史記』編集時には

 もう族姓がはっきりしなくなっていたが、

 もと倭人で、瓠(ひょうたん)を腰につけて

 海を渡って来たから瓠(こ)公と呼ばれた、と明記してある。

 ところが王様の赫居世もまた<瓠>という名の変化した

 <朴>という名をもっている。

 その理由を、辰韓の人たちは<瓠>を<朴>というので、

 <瓠>のように大きな卵から生まれたから

 <朴>を姓にしたのだと書いている。

 人が卵から生まれることはないので、これは理由にはならない。

 <瓠>は瓠公とまぎらわしいので、

 だれかが同音の<朴>という字を当てたのだとみる方が、

 より合理的である。

 ということは、赫赤居世と瓠公は二人でなく同一人で、

 乏しい古記録をよせ集めたとき、

 二とおりの史料があったために分化が起こつたのである。

 それを証明するのは、赫居世(カコシ)の名である。

 これは赫居世と読める配列になっている。

 これに古代の国称、国を<マ>と呼んだものを

 下につけると赫居世国は<カコシマ>となり

 鹿児島と当て字しても無理ではない。

 とすれば<瓠>と<朴>が同音だというのは

 日本語、少なくとも鹿児島方言でなければならないことになる。

 <瓠>は<ヒサゴ>、<ホウ>。

 <朴>は<ボク>、<ホウ>の音をもっている。

 <瓠>は『倭名類聚鈔』巻一六の六、杓(しゃく)の中に、

 「瓠は匏(ハウ)也、匏薄交(ハクコウ)反可為飲器者也」と書いてあり、

 包(ホウ)と薄(ハク)の音があることを示している。

 朴の方は巻二〇に和名「保々(ホホ)」であると説明している。

 ということは、瓠と朴は<ホー>という発音でだけ一線になる字で、

 この鹿児島王が別に<ホホ>という名をもっていたことを示している。

 いま鹿児島神宮の主祭神は

 彦火火出見(ひこほほでみ)の尊(みこと)(日子穂穂出見命)である。

 <火火>も<穂穂>もまさに<ホホ>である。

 さきの新羅の地名が南九州のものと合い、

 今また始祖の名が日本の皇祖と一致する。

 これはけっして偶然ではない。

 新羅にはもう一人始祖といっていい人物がいる。

 それは四代・脱解王である。

 [脱解紀]のはじめは次のようなものである。

 「脱解は倭国の東北千里にある多婆那(たばな)国の生まれである。

 その国の王が女国の王女と結婚したところ、

 妊娠したのに子どもが生まれず

 7年もかかってやっと生み落としたものは、

 なんと、大きな卵だった。


 王はいやな顔をして

 『人が卵を生むとは不吉なことだ。棄ててしまえ』と命じたので、

 女王は卵を布でつつんで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。

 箱ははじめ金官国に流れついたが、

 その国の人は気味悪がって取らなかったので、

 また流れていって辰韓の阿珍浦についた。

 浜辺にいた老婆が箱を明けてみると、

 男の子が入っていたので家へ連れて帰って育てたところ、

 背の高い、知識も人なみすぐれた好青年になった。

 -中略-

 老母は『お前は普通人ではないから学問で身を立てなさい』

 といい脱解も励んだので、

 3代の南解次次雄王がその賢さをきいて王女の婿に選び、

 4代目の王になったのである」


  だいたいこんなふうに書いて新羅王統の三つの家柄のうち、

 「昔」という姓の始祖であることこの昔という字は、

 老婆が箱を見つけたとき

 、鵠(かささぎ)が鳴いてついて来たからだというが、

 鵠はを記録しているのである。

 ジャクの音に対する当て字から生まれた物語り上の幻想で、

 <ジャク>は邪久国、邪古国という当て字で

 『新唐書』などに記録された

 屋久島(やくしま)の古名であると仮定すると、

 その出身地名が姓になるという原則に一致する。

 この<ジャク>は、本来琉球を意味するという説がある。

 その理由はいろいろいわれているが、

 それより現在も鹿児島弁では

 琉球を<ジキュ>または<ジク>と発音するという事実の方が、

 より強い説得力をもっている。

 <邪>の頭音は<ジ>であるから<邪久>は<ジキュウ>とも<ジク>とも読める。

 もちろん<邪>は後世の日本では<ヤ>とも読むようになるから、

 屋久とも共通である。

 これは屋久島が、

 琉球の人たちの移住によって地名が移ったものが、

 後世、<リュウキュウ>と<ヤク>の二つに区分して

 使われるようになったと考えるのがいちばん当をえている。

 ※出典:KOFUN・167~169頁


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『堀貞雄の古代史・探訪館
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

建国神話は実は邪馬壹国誕生譚


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪建国神話は実は邪馬壹国誕生譚≫

 脱解王伝承も全く同じであって、

 卵が流れついた国の側から書かれている。

 ただこの方は、その前の経過を簡単だが説明してあり、

 その出身が九州の多婆那国王の王子であると明示されていた。

 すでにお気づきかと思うが、脚色は変わっているが、

 どちらも大きな卵から生まれ、

 他人に養われて堂々たる好青年になり王位につく。

 これは本来同じ話が分裂したのであって、
 
 同時代に、これだけ類似した事件が偶然重ねて起こることはあり得ない。
 
 二つの真相を隠した説話を、

 それぞれ適当に二人の王に配分して王統を組み立てたのである。

 だから脱解の方は新羅到着前が詳しく、

 赫居世の方はそれを全く欠いている。

 これを正しく並べ直すとすれば、

 脱解王の分を先に、赫居世の分をうしろに重ねて接ぐと、

 やや一人前の話に近づくのである。

 そうすると初めて、

 倭国の東北千里にある多婆那国(種子島)から流された王子が、

 黒潮の流れに運ばれて北へ流れ、

 阿珍浦に着いて好青年に育てられ、

 先住民の王女と結婚して王統の祖になったという、常識的な話になる。

 この王は邪久(ジャク・ヤク・ジキュウ)という名をもっている。

 これらは屋久島と、

 その元の地名「琉球(リキュウ)」の鹿児島発音である。

 その琉球の朝鮮発音は位宮(イキュウ)で、

 卑弥呼の死後、邪馬壹国の支配者になった人物の名乗りである。

 その前後の事情が『ジンム』で詳しくお話ししたように、

 神武天皇であり垂仁天皇にもなっている

 『倭人伝』の伊支馬にピッタリ合うのである。

 [新羅本紀]は始祖王・赫居世を男性として扱っているので、

 本来「居世=壹與」で女性であるはずの人物と、

 この伊支馬が混線してしまっているが、

 鹿児島神宮の祭神は彦火火出見尊で、

 やはり種子島から隼人に攻め上った山幸彦でもある。



 
 するとその陵である

 高屋(たかや)山上陵と

 高耶(たかや)村と

 脱解(たかい)とは同じ名に対する

 3種類の当て字であることが、

 疑いなく明瞭にみてとれるのである。

 ※出典:KOFUN・166頁

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『堀貞雄の古代史・探訪館
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》



 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

新羅始祖王伝説の証言


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪新羅始祖王伝説の証言≫

 倭の五王が繰り返し主張した朝鮮半島の領土のうち、

 少なくとも新羅が、いつの頃からか日本人を王としていた事実、

 国内の主要地名が日本語で占められていた事実、

 肇国(ちょうこく)神話までが同じ舞台をもっている事実などなど、

 偶然では起こり得ない大量の証拠群が実在していることで、

 彼らの主張は嘘ではなかったことが明らかになった。

 しかもそれらは新羅の発生を九州だったと証言しはじめている。

 だが証拠が一致するからといって、同祖であるというだけで、

 どちらがどちらを支配していたと断言できないではないか、

 という疑問がまだ残っている。

 これが解決して初めて

 倭王は新羅に君臨していたかどうかが確認できるのである。

 これは何によって知ることができるであろうか?

 『日本書紀』と『三国史記』[新羅本紀]に分裂している

 始祖伝説の天孫降臨を比較してみれば、まず答えがでる。

 なぜなら、この二つは同じ事件を異なった視野で、

 別の方向から見ているからである。

 ニニギの尊は高天原を出発して、まだ見ぬ国へ天降る。

 『記・紀』では、

 その前に、高天原の事件と、

 天孫降臨に至る外交交渉などの経緯を、事こまかに記録している。

 これに対して、[新羅本紀]の方は次のようになっている。

 さきにお話しした六部の人々は「朝鮮の遺民」と書かれていて、

 山の谷間に分かれ住み、六力村を構成していた。

 ある日、高墟村の長である蘇伐公が楊山のふもとをながめると、

 林の中で馬が前足を曲げて、

 ひざまずくようなかっこうでいなないている。

 大急ぎで行ってみると、たちまち馬の姿は消えて、

 そこには大きな卵があった。

 割ってみると中には赤ん坊が入っていた。

 つれて帰って育てたが十年余りで堂々とした青年になった。

 六部の人たちはその誕生の不思議さ神秘さを思い、

 尊敬してとうとう王様にしたとある。

 おわかりのように

 『日本書紀』の方は王として君臨した人物の側から、

 降臨前の事情まで充分にわかるように書かれているのに対し、

 この[新羅本紀]の方は、

 その王を受けいれた人民の立場から前後の事情が書かれている。

 馬の不思議や卵生という奇蹟に脚色されてはいるが、

 それは征服者と被征服者の気まずい同居を、

 改善しようとする知恵の現れで、

 真相は力による征服者と被征服者との悲劇を秘めているのである。

 この意味で、

 はっきり政権の移譲を書く『記・紀』の大国主の国譲りなどの方が、

 より真相に近いといえる。

 『記・紀』のそれは立派に近代でも通用する外交記事であるのに対し、

 新羅のそれは常識はずれな童話の一種にすぎない。

 しかもそれが書かれたのは逆に、

 『日本書紀』の方が5世紀近く早い。

 ※出典:KOFUN・164~165頁


 『古代史獺祭
 『堀貞雄の古代史・探訪館
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年10月14日火曜日

タバナ国とタチバナ


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪タバナ国とタチバナ≫

 多婆那にも同様に何カ所もの候補地がある。

 観光地で有名な鹿児島県最南端の与論島の首府は茶花(ちゃばな)である。

 沖縄本島からはたしかに東北の位置にある。

 <タバナ>はまた、

 さきにもいったが<バ>と<マ>は馬の字の二音のように、

 日本では方言によって使いわけられている、

 タマナに変化する名でもある。

 熊本市の西北に「玉名」があるが、

 これは熊本を倭国としても位置関係が合わないし、

 新羅の候補地である白日別の国、福岡県へは陸続きであって、

 卵を流す海の話にも合わない。

 赫居世時代が鹿児島時代とすると、

 この玉名と茶花との間にもうひとつ以上の

 多婆那国候補地があるはずである。

 それはやや複雑だが解けない謎ではなかった。

 手がかりがたくさんあるからである。

 沖縄と茶花の関係を考えると、

 もうひとつの邪久は屋久島であったから、

 その東北千里にある島といえば種子島(たねがしま)である。

 ここには南種子町に宝満(ほうまん)の池という伝説地があり、

 海幸山幸の話に出てくる豊玉姫、玉依姫、

 その父の豊玉彦といずれも玉の名をもっている。

 国称には支那、ウチナ(沖縄)、任那(ミマナ)のように

 語尾に<ナ>のくるものがあり、

 倭人伝中には奴のつく国が十カ国ちかくある。

 これらの語尾は国を意味する<ナ>であるとみると、

 玉那が玉の名をもったこの島は、玉那であった可能性が強い。

 宝満の池の名も、豊(ホウ)と宝(ホウ)。

 宝(タカラ)の頭音<タ>と、

 満の頭音<マ>で<タマ>となる名で豊玉国と密接につながっている。


 種子島は古くは多執と書かれた。

 これは<タジ>と読めるから、

 二郎と書いてジローと読むようにタニとも発音されて、

 種または種子の字が当てられた。

 だから古くは国称のマをつけるとタジマで、

 田島守の田島や但馬、多遅馬は、

 この島の名から出ていると考えていい。

 これにさらに後世またナという国称をつけたと見られるのは

 橘という名が現れることで類推できる。

 なぜならタチバナは多遅馬那で結局、

 種子島から出た名ということになる。

 多遅馬那は当然沖縄県の発音であるから

 <チ>は<津>の意味として取り去ると<タバナ>が残る。

 また茶花や、沖縄本土の地名「知花」を重視すると、

 多チバナで、多(おお)の国のチバナの意味にもとれる。

 いずれをとってみても多婆那国の資格は充分である。

 脱解王は倭国の東北千里、すなわち茶花から玉名までのどれをとっても、

 日本列島中の九州出身だったことは間違いない。

 その中で特に濃厚なのが、この種子島ということになる。

 <三つの多婆那国>

 ① 与論島茶花

 ② 種子島と屋久島

 ③ 熊本県玉名郡と玉名市

 ※出典:KOFUN・162~163頁

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『堀貞雄の古代史・探訪館
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

九夷、九韓


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪九夷、九韓≫

 8世紀後半の新羅は、もう疑いもなく朝鮮半島そのものであった。

 664年に唐と新羅の連合軍が百済を滅ぼし、

 さらに8年後の672年に同じ連合軍は高句麗を抹殺してしまった。

 それから一世紀後の景徳王時代は間違いなく半島に新羅はあった。

 しかし、その郡県名に、日本地名と同じものが大量にあったのである。

 そして、新羅そのものは、かつて九州に実在し、

 南から北へ移動した証跡を残している。

 これらは別に計画的に仕組まれた作りものの史書ではなく、

 相互に、相手を知らない人々が、玄海灘をへだてて、

 半鎖国の状態下にいた、双方の正史に基づく結論である。

 もちろん、

 これによって三国史記全体が絶対に信頼できるというのではない。

 それは古記録そのものではなく、後世になって編集されたもので、

 誤りも混乱もまた当然混入している。

 ことに古代部分は、『記・紀』同様神話化しており、

 卵生の王や蛙の王が登場するなど、

 伝説や伝聞の寄せ集めであることは明瞭である。

 一寸見ただけでも同一の話が、様々に分裂して、

 時代をへだてた部分に、変型して分布していることがわかるものもある。

 だが、地理的に中国と隣接していることもあって、

 その紀年はかなり、しつかりしたものになっている。

 それだけに、時代が下って8世紀後半ともなれば、

 記事も正確になり、特にいま私たちが採用した地名は、

 事実を記録していることは間違いない。

 そのことが、かえって古い部分の地名を、

 単純に半島と大陸にあったように考えさせ、

 それが先入感となって固定してしまい、

 私(加治木義博)が気づくまで誰一人この真相を見抜くことも、

 考えることもできなかったのである。

 とはいっても、古記録の主要な地名が、鮮満地方のどこであるか、

 いまだに全然わからないという現実は、

 様々な史書の著者や研究者たちの共通の悩みであったことは、

 さきにも見たとおりである。

 それらの中には、

 三韓が日本で発生しても不思議ではないという事実を

 明らかにしているものもある。

 その一例を御覧に入れよう。

 『三国遺事』第一の馬韓の項には、

 崔致違(チョイチェン)(人名)言う。

 「馬韓は高句麗であり、辰韓は新羅である」とか、

 「四夷。九夷、九韓、穢貊(ワイパク)というのは

  周礼職方氏が支配していた四夷、九貊で、

  東夷と呼ばれる種族、すなわち九夷のことである」とか、

 淮南子(エナソジ)の注によれば

 「東方の夷人には九種類ある」とか書いてある。

 では九夷とはどんなものか、というと、

 論語正義によれば、

 「一、玄菟。二、楽浪。三、高麗。四、満飾。五、鳧曳。

  六、素家。七、東屠。八、倭人。九、天鄙」であるといい、

 海東安弘記によれば、九韓は、

 「一、日本。二、中華。三、呉越。四、乇羅。五、鷹遊。

  六、靺鞨。七、丹国。八、女真。九、穢貊」だという。

 見る者と、時代によって様々であるが、

 それらはやはり根拠があってのことであって、

 時と共に内容や名称が変るのは当然のことなのである。

 しかしここでは難かしく取る必要はない。

 天鄙という聞きなれない種族があることは、あるいは天孫族が、

 倭人の他に存在していたものとして、

 中国に知られていた時期があったとも考えられるし、

 九韓の中に、中華が含まれ、呉越が分離され、

 宅羅という変った用字や、丹という独立した国が

 数えられている点など、なかなか面白く感じる。

 従来は夷とか胡(コ)とか狄(テキ)とかは、

 中国人による蔑称だとする考え方が支配的であったが、

 それは研究すればする程、単なる分類上の名称であって、

 別に蔑視から生れたものではないことが明らかになる。

 韓もまた同様で、その中に中華が含まれていることが、

 何よりの証拠である。

 そして韓人も日本人も共に夷人の一集団に過ぎないことを、

 古人は現代人よりも、よく知っていた。

 それは血液で知っていた、というべきであろう。

 ※出典:異説・日本古代国家・271~273頁


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『堀貞雄の古代史・探訪館
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

「知覧」古代新羅の遺跡


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 ≪知覧」古代新羅の遺跡≫

 これはそう難しい捜しものではない。

 同じ「知」の字をもっていて、

 全体の発音もよく似た「知覧(チラン)」という

 日本の地名としては特異な地名が、

 知林ガ島の北西約25キロのところにある。

 しかし問題は発音の違いである。

 「林=リン」なのに「覧=ラン」である。

 これは後世に住民が入れ変ったとみると理解できる。

 なぜなら「林」は必ずしも「リン」ではない.

 広東(カントン)語など南中国語では「林=ラーム」と発音する。

 そして「覧」もまた「ラーム」である。

 薩摩半島南部は古来、南中国との交通の盛んだった土地で、

 坊之津港は遣唐使の遺跡として名高く、

 また長く対中国貿易の中心だった。

 さらに林氏という旧家にはその祖先が中国から

 移住したという記録が現存している。

 南中国系の人々が移住して「知林」を「チラーム」と発音していたが、

 外部との接触が増えると、皆「チリン」としか発音してくれない。

 地名として役立たないから様々なトラブルが起こる。

 そこでだれでも「ラーム」と発音する「覧」の字に取替えるというのは、

 ごく自然な発想である。

 こうみてくると「知林ガ島」は古い時代の遺跡であり、

 「知覧」は<鶏林>の遺跡と後世の住民構成の変化を記録した

 複合文化財だ、ということになる。
 
 「鶏林」の跡は朝群半島でも捜してみたが、

 それに一致するものはおろか、似た地名も見つからない。

 それは当然であって

 「新羅は朝鮮半島にしかない」と思いこむ方が間違っていたのである。

 新羅は5世紀になって始めて現れた国名である。

 その前は<斯盧>という日本語の白に当たる名をもっていた。

 それよりもさらに古い時代には<鶏林>という名の国であった。

 さらにその前は「徐那伐」という名であった。

 なぜ国号がそんなに、くるくる変ったのか?。

 物の名は固定しているから投にたつ。

 くるくる変れば名として役に立たない。



 物に名のない不便さを考えてみて戴きたい。

 国の名ならなおさらである。

 そこへ行くことはおろか、話題にすることさえできない。

 好きこのんで、くるくる国名を変えることは絶対にない。

 それは自然に変ってしまったのである。

 なぜか?、

 それは別の地名をもった土地へ人々が移勤したからである。

 ※出典:邪馬壹国大移動・113頁


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『堀貞雄の古代史・探訪館
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ