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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
出典:柿本一征(かきもとかずゆき)・言語復原史学会正会員
≪日本古代王族の婚姻系譜≫
「「国造り」=「よみがえり」世界観の象徴」
どんな小さな国(邦)でも、新しく邦を始めるときには、
その邦のシンボルとなるものを設定する
(ヘソ石を据える、山中の岩を割る、小山を築く、
杭を打つ、木を植えるなど)、
あるいはそういう行為を為すのである。
こういうものを築造して王の権威の高揚を図る
(築造するだけの力量を誇示する)、
あるいは国民意識の高揚の効能もあるであろう。
いずれにしても、奴隷労働などではありえない、
ということはいえる。
立岩から割石一つ切り出すにしても、
国民総動員で力を合わせて運搬したのである
(総動員というのは直接間接という意味である。
男はロープを引っ張り、女は食事をつくった
《かどうかはわからないが》)。
それが国造りというものだからである。
ある時期(四世紀初頭~およそ前半)、
ある集団にとっては、
丘の中腹に列石施役の築造がそれに該当した、
というだけのことである。
それにしても、
こんな大それた施設を軍事目的以外の目的で築くということは、
相当に強く大きな、意識的、生産力(国力)的な
インパクトがあったのに違いない。
世界観の断裂があったと表現出来る程度のそれである。
「帯隈山と倭王」
次は、帯隈山についてであるが、
結論としては真浄が築造者だったのではないか、
ということであるから、
真浄が倭王であることは間違いないといえる
(茶臼山の茶臼はチャンスン=男将軍?)。
加治木著「邪馬壹国の言葉」(コスモ出版)の中に
「尾=隈=倭=ウアイ」という部分がある
(p190)から、帯隈➩隈帯➩倭帯で倭王になる
(少なくともそういう意味が含まれているといえる)。
黒住秀男他共著「古代日本と海人」(大和書房)p159によると、
吉野ケ里に近い霊山金立山
(徐福伝承で名高い、帯隈山遺跡に近い)の
西方約三キロ地点に大和町「有ノ木」という地名がある。
そこは有明海から嘉瀬川をさかのぼったところ。
海人がきた可能性が大きい、とある。
「アンビトリテとポセイドンの系譜」
同著は「有木」地名の分布を全国的に調査しているうちの
一部分である。
他に昭文社のエアリアマップで
帯隈山列石遺跡周辺の地名を調べていると、
筑紫郡に「網取」という地名がある。
有木、有ノ木は阿爾(濔)今の音韻変化であり、網取も、
① 阿濔の棟梁(結局阿爾兮)、
② 奄美王、
③ アンビトリテの省略形
(アマミはアンビトリテのアンビの音韻変化、
アンビトリテはギリシャ神話の
ポセイドンの妻・加治木通信講座)、
である(Ambitorite?Amitori)。
有ノ木、網取の二つの地名は、
どちらからみても次の系譜と重なっている。 、
「系図K」
2 3 4
5 6 7 8 9
伊買∥_|阿爾兮∥_|菅韓多羅∥_|息長 ∥_|千熊━真浄 ━竹内宿祢━石川宿祢
内礼∥ 臣潰沽∥ 大筒木垂∥ 日子王 長彦(網取 )(網浜) (湊)
(清日子) 根 附志∥
(天日槍) |壹與 ∥_|咄固━美川王━故国原王━伊集院王
位宮 ∥ (天日鉾)
中日女 ━ 多婁 ━ 己婁━蓋婁 ━岡陋姫 ━|山無
時姫 ━ 汾西 ━ 胆咋━五十琴━伊呂弗 ━ 洛
「列石施設築造は石氏の事業だったか?」
息長日子王の妃附志は汾西の妹で、
この汾西、附志はフシ=フジ=葛(フジとも読む)=百済
(フシ?クダラは後の時代の発音)で、
汾西の子孫(孫)の五十琴宿祢は第13代百済王
(近肖古王346~375)と解明されるから、
汾西も、その妹の夫息長日子王も間違いなく
百済殿(ポセイドン)なのである。
真浄も百済本紀の近肖古王の立場から表現すると
「朝廷佐平」であるが、
前金官加羅国の立場でいうと、
彼自身が前金官加羅国王=倭国王=倭帯(タラシ)=
帯隈(山列石遺跡)
ということになる
(前文の繰り返し)。
美川王の妃の父は石勒で、
石氏は羯族の長で、
羯族の宗教はゾロアスター教だった
(小林「4C」p215)とある。
真浄の弟にあたる石虎は「大土木工事をおこすのを好んだ」
(p400陳舜臣前掲書)。
石虎が趙王を潜称したのが334年、
没年は449年(後趙)だから、
列石施改築造の企画立案や現場監督の任務について
いたこともあったのではないか…という
程度のところまでは、推理が出来る。
同じ圏内の列石遺跡のうち、
把木遺跡の把木は葉木、抜奇と同じだから、
K系図を少し変更すると、
2 3 4 5 6 7 8
抜奇 ∥_|八坂王∥_|大筒木垂根∥_|息長 ━千熊 ━真浄 ━武内宿祢
竹野姫∥ 真敷 ∥ 菅韓多羅 ∥ 日子王 長彦 (把木)(把木)
となって、
把木遺跡は武内宿祢が築造者なのではないか、
という推測も成立するが、
今はおつぼ山、雷山、帯隈山遺跡の築造者推定だけで
満足することにしたい。
「イトと五十跡手と天の日槍系譜」
肥前国風土記逸文に
「高麗の国の意呂山に天から降ってきた
日槍の末裔の五十跡手とは私のことです、
といったところ、
天皇はお前五十跡手の本拠地を
恪勤(いそし)の国というがよいといったのが、
訛って恰土の郡というようになった」
というような意味のことが書いてある。
恰土郡は今の前原市、旧糸島郡の糸郡である
(この糸島郡《現前原市》は
魏書倭人章の「伊都国」と誤解されていることで有名であるが、
後の時代の地名を三世紀半ば当時のものと誤認したもので、
倭人章の伊都国は佐賀市一帯である)が、
「この恰土国は日槍の同族が建てた国」
(浮田洋太郎「ヤマト国家成立の秘密」・新泉杜p77)
と判定して間違いない。
日槍の系譜はK系図を少し変えさえすれば、
簡単に理解できる。
2 3 4 5 6 7 8
仇道 ∥_|臣潰沽 ∥_|菅韓多羅∥_|壹與∥_|咄固━美川王━故国原王
公孫度∥ (清日子) 大筒木 ∥ 位宮∥ (天日槍の
の宗女 (天日槍) 垂根∥ (熊襲タケル) 末裔五十跡手)
阿爾兮 ∥
五十跡手が仲哀天皇に降伏したのは354年のことだが、
362年になると逆に仲哀天皇(=五十琴の長子伊呂弗)を
戦死させているのである。
(故国原王=熊襲、故国原王は熊毛郡=南九州《襲》と
南西諸島の王)
(仲哀9年=362年、
肥前国風土記逸文基肆郡姫杜郡粂=あらぶる神がいて
道行く人を殺した=仲哀天皇戦死)
(前掲文の同義反復)。
降伏した時に既に恰土郡にいたのだから、
そこは故国原王の領地だったことになる。
「人物史が読み取れる「人名」」
父美川王が放棄して逃亡した肥前を、
息子の故国原王が回復(奪還)していたということになる。
なお、大筒木垂根の別名屋主忍男武雄心命の中に
「武雄=武雄市」がふくまれていることは
前稿(「七支刀」)でもみておいた。
勢力は消長するし、人は情勢によって激しく移動する。
人名は、
単に領地を示す(名乗り)だけでなく、注意して考察すると
(その人物の別の記録の解釈も加味するなどして)
その人物の行動
(何処から何処へ)が見えてくることが少なくない。
吉備(岡山県)の開拓はどこからみても、
王族の系譜の範囲でいうなら、
既に抜奇(卑弥呼の弟)の代から始まっていた
(2世紀末)ようである
(「抜奇勢力出雲上陸」参照)。
318年、半島で慕容傀に敗退した美川王は、
姫島(国東半島の沖合)、
安芸宮島を通過して(山口県でイツツヒコに妨害されている)、
抜奇の子孫の己婁王(陳元達)や蓋婁王(陳安)が
居住していた地(現在の総社市一帯)の
隣地(東岡山市一帯?)を譲ってもらって、
終の棲家に定めたのだった、という図式になる。
同族のよしみがあったからこそのことである。
おつぼ山遺跡は318年以前に築造されていた、
ということになる。
「美川王と蓋婁王」
美川王と蓋婁王との「同族のよしみ」を系図で確認すると、
次のようになる。
「系譜L」
4 5 6 7
|大筒木垂根 ━|息長日子王
(息長宿祢王) |壹與 ━咄固 ━美川王
(息長帯姫)
|中日女 ∥
大新河 ∥ _|多婁王∥━|己婁王∥_|蓋婁王
清姫 ∥ 清姫 ∥
美川王の父方の曾祖父と、
蓋婁王の父方の曾祖母とは兄と妹の仲だったのである。
この己婁王が陳元達、蓋婁王が陳安の別名であることは
後にみる。
なお、美川王の勢力は
南廻りの有明海ルートと、
西方廻りで伊万里市(伊万里湾)に
抜ける陸のルートがあったろうことが、
その地形と地名から考察出来ると思うが、
詳細な吟味は今は別のテーマである。
「五十跡手の言語復原」
五十=イソ=磯=磯城=隼人町、五島列島。
イト=恰土郡(現在の前原市)、
跡=ト=投(馬国)、アト=アタ=吾田、手=タ=立岩
(伊万里湾の沿岸部にも立岩という地名がある)。
354年から362年、伊呂弗
(その妃玉彦姫の別名岡陋オカヤ姫=遠賀水門の支配者で
両者の子は「竺志連」「鍛冶師連」とある)
と故国原王(五十跡手)は、
「崗水門」の領有をめぐって激突したのであるから、
そこはどちらにとっても要衝の地だった
(当然といえばあまりにも当然だが)。
こうした最終的な戦闘行為を回避する手段として
領有権の分有ということがあるはずだが、
譲れない事情があると、生死を賭けての対決になる。
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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