2015年1月14日水曜日

日本古代王族の婚姻系譜⑨


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 『Yahoo!天気・災害』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 出典:柿本一征(かきもとかずゆき)・言語復原史学会正会員

 ≪日本古代王族の婚姻系譜≫


 「壹與をとりまく仏教名と列石遺跡」

 壹與は卑弥呼の宗教的後継予定者であったのであり、

 血縁者でもある(卑弥呼や弟の曾孫)が、

 シーラバッガ派(シンドー教の一派)の位宮の養女として

 (加治木著書及び通信講座)、

 女王に共立され、自らは天御中主(ビシュヌー教徒)になった。

 三角縁神獣鏡は卑弥呼の好物(鏡)と、

 シンドー(西王母東王父、神獣)教を

 折衷した要素を表現したもの=ビシュヌー教徒を

 意味しているのではないだろうか。

 壹與は結果として卑弥呼の仏教倭国を排して(タタス《仏を去る?》)、

 ビシュヌーの倭国女王として宗教的に成長した女性である、

 という意味が含まれている。

 おつぼ山列石遺跡のすぐ目の前の山が「立岩」である

 (…使用された石材は安山岩質のもので、杵島山の各所で見られ、

  おつぼ山に近い立岩付近がその石材採集加工地といわれている。

  立岩は神籠石の北東約800mに位置し、

  おつぼ山東側によく見える一武堆市教育委員会による掲示板より)。

 以上から、以下の図式が得られそうである。


 壹與     --咄固(儒礼王)- 美川王(肥前王)-故国原王

 朴赫居世       (基臨王)  300~331  331~371

 富登        岐(黄、気)  多多須      良伊(雷)

 穂・投        霧(之国)  立の(立岩の)     

 伊勢(伊須須)    

 伊江島=依

 壹国=依、姫木山          おつぼ山列石遺跡 雷山列石遺跡


 「列石遺跡と山城」

  故国原王は前出のように335年、342年に城を築いた

 (およそ岩で築く山城)という記録があり、

 列石遺跡と半島の山城との類似性は、

 その両方を観察した人が一様に表現しているから

 (僕は半島の山城は本の写真を見るだけ)、

 上のような相関関係になることが、初歩的ながらいえる。

 おつぼ山列石遺跡は規模が最も小さく、

 最も素朴な印象がするから、

 相対比較上(比較遺跡学的にいって)

 一番始めの築造物といえるのではないか。

 それに、所在位置的にも一番西に位置している遺跡である。

 築造目的(なんのために築造したのか、

 何を築造したのか)については、おつぼ山に限らず、

 ほとんどが山城説=山城として築いた

 (あるいは、神域説は退けられて山城(跡)説に

  落ち着いた(結論になった)、というものである。

  この遺跡については「権威ある学説?」

 などというものは適用しないから

  (僕も含めてあれこれいっているだけ)、

  どのようにいわれているかを知るだけで十分なので、

  二つだけ紹介する(ほかのものも大同小異である)(その部分だけ)。

 「観光パンフレット(おつぼ山)」

 昭和36年に発見されたとき、水門、木柵を立てた穴、

 列石の上の土塁などが認められ、

 神籠石を山城とする説の決め手となった。

 石城山(山口県、大和町教育委員会)

 昭和38、39年、

 国の文化財保護委員会と大和村との共同による発掘調査の結果、

 従来知られていなかった空壕、桂穴、版築工法による

 大土塁が数百メートルにわたり発見され、

 神籠石式古代山城の一つであるといわれるようになった。


 「神篭石=山城説の決め手・おつぼ山遺跡」

 これらの文中にある「土塁」は7世紀後半に、

 別の目的

 (強制的奴隷労働=奈良の亀石施設と

  その周辺の大土木工事と機を一にしたもの)に

 よって行われた工事で、エネルギーを消耗させるためだけの

 工事(労働のための労働)である。

 一例だけ上げると、

 おつぼ山の何番目かの水門は比較的小規模であるが、

 美しいものである(芸術的印象を受ける)が、

 それでさえもスッポリと土塁で覆い隠されていたものを、

 (昭和36年に?)土塁を除いて水門が

 見えるようにしている部分がある。

 これだけでもいえることは、

 列石遺跡築造の時期に、

 土塁は存在していなかったことがわかる、

 ということである。

 日の前に美しい水門が見えていて、

 そこからトウトウと水が流れ落ちていてこそ、

 水門施設築造の目的に適うのだから、

 ことさらそれを土塁で覆い隠す必要はないし、

 もし山城施設用の水門なのであれば、

 それは単なる排水施故でさえあれば十分なのであって、

 なにも芸術牲を志向する必要性は皆無である

 (実用牲だけが意味をもつ)。

 巨大な鬼城や御所が谷遺跡ならまだしも

 (山城か杏か吟味する値打ちがある)、

 一番低平なおつぼ山や、鹿毛馬、永納山遺跡を

 「山城跡」と判定するのは、

 およそ合理的な知性の範疇を逸脱している、としかいいようがない。

 列石施設築造時期には、土塁は無関係と考察する必要がある

 (頭の中で土塁を消去して、もとの施故をイメージする)。


 「儀礼施設としての列石築造物」

 これら十数例の列石遺跡は全て数百年(三百数十年)の年代差を

 含み持つ複合遺跡なのである。

 施設築造の目的は、国立(建)

 (正確にどういう学術用語がよいのか僕には解らない)-

 我らが叢の象徴を造る(造った)ということだったのではないか、

 と考察する。

 列石は丘(又は小高い山)の中腹を上昇したり、下降したりして、

 低平面に降りているものもある(おつぼ山や鹿毛馬の場合)から、

 これは、必ずあの世(冥界)と

 この世(現世)の境界(境目)を意図している。

 これらの施設が例外なく強調している水門、泉、門

 (城門などではない)、

 崩れ(混沌=カオス)、

 オンパロス(これら施設内邸には必ず象徴物がある)などは、

 全て宗教的、宇宙観、世界観、信仰的な意味でのよみがえり

 (=冥界を潜ってこの世に復帰する)の象徴である

 (この部分は「境界論」の専門家の領分である)。

 このことから、僕は当初、

 「王の即位のための施設」だったのではないか、

 との素人的直観的想定のもとに、観察、考察、研究を出発した。

 首尾よく完成の暁には、

 その築造者は必ずなにがしかの儀式儀礼を

 その施設を利用して行っていることは間違いないし、

 年々の儀式儀礼においても、王ただ一人だけだったか、

 あるいは国民も含めての集団がそうしたか否かは不明だとしても、

 更新儀礼施設としても利用された筈である。

 王が即位儀式をおこなう施設として築くこともありうるし、

 完成された施設を利用して即位儀礼か、

 あるいはなにがしかの更新儀礼かをおこなったこともありえるが、

 それよりも現実的な解釈は、

 「新しい国造り」もまた「よみがえり」であるから、

 こういうものを築造して、新しい国のシンボル(象徴)にしたのである。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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