2015年1月12日月曜日

日本古代王族の婚姻系譜⑦


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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 出典:柿本一征(かきもとかずゆき)・言語復原史学会正会員

 ≪日本古代王族の婚姻系譜≫


 3.北九州列石遺跡(おつぼ山、雷山、帯隈山)の築造者推定

 美川王は肥前王で、美川王の祖母息長帯姫(壹與)が

 久留米市とかかわりのある女性=倭女王であることは、

 次の二つの説話が残されていて、疑いようがない。


 「万葉緯所引逸文風土記」

  八小男八少女等、比(ここ)にこぞり逢いて

  イスス樹キ接(まじ)はりき

  (p135山上伊豆母「神話の原像」岩崎美術社)

 「住吉大社神代記」

  …そこで、

 垂仁天皇の皇后は八大夫(やおとこ)と

 八美女をひきつれてみずから神主となり、

 神を祀った(p146谷川健一「白鳥伝鋭」集英社)

 前者は歌垣(豊穣予祝の儀礼)のことだろうが、

 後者は

 「(この説話の舞台どなっている)八女県の藤山というのは今日、

  久留米市郊外の藤山に比定されている」

 とあるように、場所は久留米市である。

 垂仁天皇は位宮で、位宮の妃は狭穂姫(初小の母)、

 弟苅羽田=狭穂姫の妹(磐衝姫=播磨稲日大郎女の母)、

 壹與(咄固の母)の三人で、

 このうち壹與は「イスス」

 (伊勢の、五十鈴《川》)とかかわりのある別名を持っている女性

 (前の文は五十鈴川の川の名の縁起)である。

 壹與は254年ごろ沖縄で咄固を産んだ

 (咄固は儒礼王=首里王、284~298)。

 晋書武帝妃泰始二年(266年)と、

 同書四夷蛮伝・倭人条の

 「泰始初め、使いを遣わし、訳を重ねて入貢す」とあるのは、

 壹與の献使とされている。

 この年(266年)壹與は32歳位で、

 宗教家として成熟していく年齢に該当する。

 咄固は12歳である。

 咄固はトン(カラ)コで、トンカラコといえば

 トンカラリンだ(玉名市にある遺跡)、

 玉名市の近くには菊池市や菊池川がある。

 咄固の息子の美川王は肥前王の名乗りであるから

 (肥前は長崎県、佐賀県)、

 美川王の出生はその周辺一帯のどこかであろう…。

 だから咄固の妃は菊池姫で、

 八女津姫の別名を持つ高田姫の妹にあたる

 女性ではないか…などと、

 微かな手掛かりを頻りにして、

 記録のない女性を復原した次第である(「七支刀」)。

 本稿ではD系図のように修正したが、

 これも文献的史料があってのことではないから、

 読者への申し訳なさと、自分自身へや恥ずかしさとで充満している。

 誰も、信用してかかる(認める)必要はないのであって、

 僕もそれを(認めてもらえる)期待しているわけではない。

 ただ、咄固の妃のおよその世代関係だけは、

 正しく修正されたものと確信している。
     
 「D系図再掲」

  4      5     6     7

 難升米∥_|多婁王∥_|己婁王
 中日女∥   清姫∥ |菊池姫∥ |美川王 
      |高田姫∥  咄固 ∥
       烏越 ∥_|慕容傀


 咄固の出生と成育の記録が

 「常陸国風土記那賀郡茨城の里条」である。

 咄固は日増しに母の手に負えないくらい成長していったと

 書いてある。

 家来を欲したが、母と伯父(息長日子王)は無力で、

 付け人を付けてやることも出来なかった。

 母が甕を投げたので天に昇れなかった

 (沖縄に帰ることが出来なかった)と、

 咄固が死んだ時のことまで

 (愛媛県の雉之尾古墳に埋葬された)書いてある。

 常陸国の風土記だから沖縄は無関係だ

 と素人のような判断を下して、

 それ以上の追及をやめるような者は、

 古代史研究に不向きな人に属する。

 咄固の父は位宮であって、位宮が古事記、

 日本書紀の神武天皇(の一人)であることは

 間違いないのだから、

 神武天皇は間違いなく実在する。

 ただ、位宮はその生存期間が限定されるから、

 紀元前7世紀に即位したのでないことは間違いない。

 神武天皇段には天武天皇の事跡が投影されている、

 というのが「学会の常識」である。

 他にも多くの神武天皇(のモデル)が含まれているというのが、

 古事記神武天皇、

 日本書紀神武天皇段の結論ということになる。

 そのモデルと彼の事跡を、

 限り無く一人残さず、

 一つ残さず鮮明していくのが古代史学であり、

 古代史解明に従事する者の役割である。


 「神武天皇は架空(の人物)である、

  これは歴史学の常識である
 
  (某年しんぶん赤旗の『絹』記者)」などというのは、

 「記紀神武天皇」の解明に従事する者への

 政治介入になるのではないだろうか。
 
 加治木義博先生のKKロングセラーズ社シリーズは、

 ある面で「記紀神武天皇」段の解明の著書であるから、

 少なくとも入手通読の手間隙をかけるぐらいは、

 「神武天皇に言及する」記者としての

 最低限の礼儀というものではなかろうか。

 例えば「卑弥呼を攻めた神武天皇」にはこういう解明がある。

 その日こそ、私たち日本人が、

 「建国記念の日」として、尊重しようとしている日なのだから、

 ここでいい加減に見通ごしてしまっては、なにもならない。

 国家主義だとか帝国主義だとか、

 皇国史観だとか唯物史観だとかいう看板は、

 それを商売に利用している連中だけの問題で、

 私たち大多数の日本人にとって

 迷惑な前世紀の遺物でしかない。

 そんなものとは無関係に、

 純粋に日本という国の一つの出発点になった、

 この「グレート・エポック」について知らない日本人は、

 「文化人」の中に入る資格がないことは確かだ。
 
 それは一体いっなのだろう。                      
 だからここできっちりと、

 この「大発見l」について正確に記憶しておいてほしい。

 それは[西暦241年1月1日]=

 「魏の少帝・芳の正始二年・辛酉(しんゆう)の春・

  更辰(こうしん)の朔の日(ついたち)」

 である。(p37)。

 以下の文章は各自で読んでいただくしかないが、

 一言だけ付け加えるなら(おそれおおいことであるが)

 この日付は個々の人の主義や主観で左右することが出来ない

 「真理」であるということである。

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部



 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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