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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
Matのジオログ
さいたま朝日WEB
『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
出典:柿本一征(かきもとかずゆき)・言語復原史学会正会員
≪日本古代王族の婚姻系譜≫
「布都久留の鹿児島王朝」
4 布都久留の鹿児島王朝、カゴサカ・オシクマ皇子は
鷲住王の息子
百済13代近肖古王(五十琴宿祢)の長男は伊呂弗で、
蓋婁王の娘玉彦姫との間に真椋、洛、飯豊青の
三人の子がいた。
真椋はマクラ=枕で、鹿児島県の枕崎である。
玉彦姫の兄多遅麻連公の后は安姫で、
安姫は五十琴の妹五十琴姫(弟姫)の娘であり、
父は五十功彦である。
多遅麻には玉彦姫の他に、
もう一人の妹(中姫=可足渾)がいた。
さて、伊呂弗にも妹がいた…と前提(想定)して、
これらの人物の周辺の系譜を作成する。
その前に、履中6年2月の系譜の意味を解明しておくと、
実にスバラシイ発見が出来る。
それは次のようになっている。
鮒磯(ふなし)別王━|鷲住王(履中天皇の妃の太姫郎姫は鮒磯別王の
|太姫郎姫∥ 娘で、鷲住王の妹だ…。)
履中天皇∥
「履中天皇は多遅麻」
これを論証抜きで解明すると、次のようである。
実は名前を入れ替えるだけで論証になっているのである。
「系図M」
7 8 9
|五十琴
|五十琴姫 ∥
(弟姫) |驚住王 応神天皇∥
五十功彦 ∥_|安姫 ∥_|山無姫 ∥
(本姫郎姫) |大別
|清姫 ∥ |オナベ姫
蓋婁王(陳安)∥_|多遅麻 ∥
|中姫
このように、鮒磯別王=五十功彦に他ならない。
すると、
前稿(「七支刀」)で多遅麻が
百済14代近仇首王と解明しているから、
百済本紀にある近仇首王の男(しゅうと)の真高道は、
多遅麻の妃の父の五十功彦(=鮒磯別王)ということになる。
応神天鼻の妃の別名の一つは太姫であるから、
安姫(太姫郎姫)━太姫(山無姫)と、
母と娘が同じ部分(「太姫」)を含みもっていて、
天孫本紀は
「山無姫(太姫)は履中6年2月条の太姫郎姫(安姫)の
娘なんだ、
その履中天皇は多遅麻のことなんだ、気付いてくれ」
といっているのである。
天孫本紀の麦入宿祢(「畑井系図」では
伊呂弗の弟の位直にある《いる》)の妃は
全能姫で目古連の娘とある
(p8畑井弘「新版物部氏の伝承」三一書房参照)。
この部分も世代関係を修正しないと、
全く意味不明で歴史を解明する役に立たない。
証明(修正の仕方は前稿(「七支刀」)の
五十功彦の部分と同じだから省略して、
真椋=麦入=伊呂弗の息子(長男)である。
これらの人物の相互の婚姻をを系図にすると次のようになる。
「多遅麻の系譜」
「系図N」
7 8 9 10
多遅麻∥ |山無姫
五十功彦∥_|安姫 ∥_|大別 ∥ |葦田
|五十琴姫 福寿 ∥_|中磯姫
|鷲住王∥ |里姫
|戸田
香児姫∥ |娘 ∥ |カゴサカ皇子
(伊呂弗 |オシクマ皇子
の妹) |全能姫∥_|辞姫
|五十琴 ∥_|伊呂弗 |大前
|清姫 ∥ _|真椋 ∥ |小前
蓋婁王 ∥_|玉彦姫∥ (麦入) |石持
(陳安)
|中姫 |洛 ∥ |小事
|多遅麻 山無姫∥_(阿華王)
|木蓮子
|汝妹(多彼)
「蓋婁王に関連のある地名」
この蓋婁王と香児姫が兄妹であることは、
前稿で既に確認している。
驚住王は驚羽山=岡山県、住は住之江(博多湾?)、
枕崎の真椋が「麦入」だとすると麦は妻木だから
都満・霧(之固)、入=入来(いれき)である。
「全能」はマッタクノだからマッタ(馬田、末羅)、
マッ(タ)クラ(ノ=ロ=ラ、no=ro=ra)=マクラ(=真椋)
だから、
夫婦として同じ名前になるようになっている。
10代目の世代の石持連について、
右京諸蕃下に「石野連は百済国人の近速古王(近肖古王)の
孫憶頼福留(真掠に相当)の後也。
続紀天平宝字5年条百済人憶頼子老ら41人に
石野連の姓を賜う、
とあるから、
五十琴(近肖古王)-伊呂弗-真椋-石持連…石野連
ということになり、
この系譜の信憑牲を証明する。
憶頼は巨椋と同じ
(京都伏見の巨椋池やマ・クラの倒置の
クラ・マ=鞍馬寺の名とかかわりがある)である。
速古=ハヤ・フルで隼人町・夫余で、
近肖古王の都が南九州だったことがわかる。
大前小前は御前(オマエ→ミサキ)と同じだから、
地御前(広島県。ジゴゼンと読むがチのオマエとも読める)、
赤穂岬(御前)、
河内の「お日の御前」(谷川前掲書)の地名は
彼らの進出地であることを示している。
岡山県和気郡日生町=日の御前
(ヒのゴゼ→ヒのゼ→ヒなゼ→ヒなセ=ひなせ)→日生。
大前小前が日(種子島、豊前豊後)の
神前(お上)だったのである。
赤穂は阿華・穂になる。
島根県日の岬(御崎)は多遅麻や伊呂弗は
若狭まで進出していた
(小林「4C」)ことから類推できるのではないか。
「裏返しの系譜も完全一致 史実確認の一手法」
但し、この系図は上のパターンと少し違うではないか、
と、不満として、
この裏返しの系図を求めてみると、
完全に一致する系図が得られる。
「系図P」
紛西 _|胆咋 ∥_|五十琴 ∥_|伊呂弗
(景行天皇) (彦人大兄王) (大名方王)
比メ古 ∥ 香児姫 ∥ |大中姫 ∥_|全能姫
(カグロ姫) (銀王) 鷲住王 ∥ |カゴサカ皇子
(仲哀天皇) |オシクマ皇子
鷲住王の妹も娘も、とにかく、
はらわたに染みる声を出して泣く女性だったと
仁賢6年条に書いてあるから、
内礼=奈良姫(奈落=浄土=葬式に従事した女性)だったのである。
布都久留である枕流王は384、385年の在位だから、
この頃、
苻洛は命もからがらに「枕崎に流れ着いた」
(「枕流」王の意味するところ)のである。
この頃、彼(苻洛=布都久留=応神天皇)の従兄弟にあたる
カゴサカ、オシクマ皇子がなんらかの事情があって
(「応神天皇の即位を妨げようとした」ということから類推)、
両者の間に攻防があったということで、結果的には布都久留が勝利した。
ここで僕が考察したいことの力点は、
両者の攻防の内容や因果の究明にあるのではなく、
神功皇后が赤ん坊の応神天皇を連れて
(武内宿絹がおんぶだか抱っこだかして)
近畿地方に攻め込んだ…という、
多くの従来説のいい加減さについて、ということである。
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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