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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
Matのジオログ
さいたま朝日WEB
『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
出典:柿本一征(かきもとかずゆき)・言語復原史学会正会員
≪日本古代王族の婚姻系譜≫
「系図J」
3 4 5 6
_|末仇2 ━ 末仇3 ━ 末仇4(扶余王玄)∥
|末仇∥ 蜂上王 ∥ |石城別
休礼∥ |哀邪本嬢 ∥_|高奴子
|味鄒∥_|哀部本王∥_|哀邪本皇子 ∥ |サホ姫 ∥
光明∥ 玉姫 ∥ |水歯郎女(五十香彦の妃)
|室比古王∥ 屋久島の女性∥__|劉曜
張氏 ∥_|劉聡(四男)
E系図とJ系図の室比古王の列を並立させてみると、次のようになる。
2 3 4 5
仇道(剄頚) ∥ |末仇∥_|末仇2 ━末仇3
(伊声耆) _ 休礼∥ (比流王)304~344
息長水依姫 ∥ |味鄒∥ |室比古王∥
光明∥ 張氏 ∥_|劉曜(四男)
僕の「ホケノ山古墳の被葬者特定」という論考の中で、
味鄒=山代大国淵、室比古王=劉淵であることは解明してあるから、
陳舜臣前掲書p384に
「劉淵の祖父於夫羅(オフラ)は、
献帝の東帰を援け、
その居住地は中原からごく近いところだったのです」と
ある文章のオフラのルビはオフロと変更出来る。
オフロはオフロー(=イフロー=ユーロー=ギリシャ人)である。
仇道は烏越(慕容渉)にとっても祖父である
(仇道━臣濆姑━烏越)。
どちらから見ても合うものは、
それが真実の系着であることの証拠である。
ギリシャ人である伯固(紀妃の孝霊天皇)の息子は
やはりギリシャ人である。
この人種の名は、
後のオホド大公王(継体天皇)になって復活(?)する。
オホド=オホロ=オフロ=イフロ
(意はイとオの南方の発音を持っている)=
ギリシャ(人)になるからである。
劉淵は大航海王味鄒の息子で、
彼自身も航海王(船長、海軍大将)だったし、
彼は三世紀未に沿海州で人望を得て、
ついに皇帝になった(漢)=304~310年病没。
沿海州で人望を得た、
彼は航海王(大商人=海商)というのなら、
南九州、瀬戸内海のみならず、
日本海沿岸と半島、大陸を航海(交易)していたのである。
2002年1月12日各紙の報道は
紙面の大きさと内容面の両面において、
実に濃淡の差があって、
尽きない興味をそそられるものであったが、
その報道とは、石川県七尾市の
「万行(まんぎょう)遺跡」に関してであった。
「ヤマト政権の支配がはやくも及んでいた」
というパターン通り(共同配信?)の解説の他に、
「ヤマトとは異なる独自の勢力が、
朝鮮半島から日本列島へ放射状に伸びる
交易ルートのうちの一つを担っていたのではないか」
(山尾幸久・毎日新聞)などのコメントが掲載されていた。
報道の通り
「三世妃未~四世紀始め(の倉庫群跡)」の年代が正しいものならば、
どう考えてもこの時期、
この地域を航行していたのは室比古王(劉淵)たちの商船、軍船である
(劉淵は名前が確認される彼ら豪族連合の一代表者にすぎない)。
劉淵の父は畿内、大和に移住していて、
息子の室比古王も瀬戸内海を航海したから、
ヤマトと無縁ではないが、どうみても、
彼、(室比古王)がヤマト政潅の代表者だったと
位置付けるわけにはいかないではないか。
彼が大和政権なら、彼が「大陸で皇帝に推される」筈はない。
「ヤマトとは異なる独自の勢力」の表現の方が正しいのだと思う。
また、味鄒も大和政権ではない。
「方位は北極星を基準にした真北に沿っており」
「高度な測量、設計技術がうかがえる」とあり、
天御中主(金味鄒)の息子の宗教観を反映している。
室比古王は若狭の耳別の祖であり、
若狭は秦氏の居住が濃厚に確認される地域である。
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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