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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
Matのジオログ
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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
出典:柿本一征(かきもとかずゆき)・言語復原史学会正会員
≪日本古代王族の婚姻系譜≫
次は「系図A」の4代、5代の兄弟柿妹関係をみておく必要がある。
「系図B」
2 3 4 5
_ 八坂王∥_|大筒木垂根 ∥_|息長日子王
|抜奇 菅韓多羅 ∥_|息長帯姫(壹與)
|伊夷模 ∥_|真敷 ∥ |八坂入姫 ∥ |虚空津姫(弟姫)∥
ヨソ足姫 ∥ |位宮 烏越 ∥ _|大碓 ∥
|中日売 ∥
大新河(難升米)∥ _|多婁
|比メ古
|高田姫
|時姫 ∥
十市根(都市牛利) ∥_|汾西
|清姫
|附志
|抜奇
|伊夷模
|内礼 ∥ _|奈解 ∥_|大新河(難升米)
伊買 ∥ 昔 ∥ |十市根(都市牛利)
|玉姫(西川王の妃)
|阿爾兮∥_|菅諸男(烏越)
|仇道 ∥ |菅韓多羅
公孫度の宗女∥ _|臣濆沽∥
石勒とその后、押黒弟日子王とその妃、大碓については後に解明する。
A系図には書き入れていないが、
真浄の弟が石虎で、石虎の后は劉曜の娘である
(美川王妃が石勒=周氏の娘であることは「高句麗本紀」に、
劉曜の妃が羊氏であること、
石虎の妃が劉曜の娘であることは「載記」に出ている)。
次に、高句麗王統譜、前新羅王統譜の「実際の系譜」は
次のようである。
[系図C]
1 2 3 4 5
伯固 ∥ 公孫度の宗女∥_|臣濆沽
忍日女∥_|仇道 ∥ (助濆王) |狭穂彦
息長水 |狭穂姫∥_|初小(烽上王)
依姫 ∥_|味鄒 ∥ _ 位宮∥
光明 ∥ |哀邪本王(西川王)
C系図のうち、臣濆沽と味鄒の間に末仇がいる。
これを略図にすると、次のようになる。
仇道_|臣濆沽(助濆王) 新羅11代王 230~247
|末仇 (沾解王) 新羅12代王 247~261
|味鄒王 新羅13代王 262~284
これは金仇遁
(「魏書倭人章」の
伊声耆イシェンギに該当)の三人の息子(三兄弟)がピッタリと、
系譜としても、
新羅王統系譜としても、
代数(11→12→13)、
在位年代としても、
きれいに復原出来たということにならざるを得ない。
末仇の「末」は「末羅(廬)」「馬韓(マ又はウマ・ガ・ラ)」、
仇は「喜入」又はアダ(吾田地方=南九州)になるから、
沾=テン=添=ソ=襲=ソツヒコ=襲津彦と完全に一致してくれる。
彼の行動領域が解るとともに、
当時倭国の北の端とされている狗邪韓国の王が彼だったのではないか、
ということまで推定させてくれるのである。
なお、高句麗王統譜の
「伯固→抜奇→伊夷模→位宮
(東川王)→難升米(中川王)→哀邪本王(西川王)→
初小(岩衝別王=烽上王)→美川王→故国原王…」
についてはもういいだろうと思う。
この解説は本稿の課題ではなく、
今後の別稿での繰り返しての吟味と解説、再解明、精密化の際の
課題である。
とはいえ、せっかくの解明であるから、
もう少し系譜の解明を継続する必要がある。
位宮(東川王) ∥_|咄固
壹與(新羅初代朴赫居世)∥ (儒礼王、基臨王)∥_|美川(肥前、備前)王
菊池姫 ∥
これでみると、
高句麗王統譜と(前)新羅王統譜はあきらかに交錯(?)している。
この図のうちの、
菊池姫の系譜的な位置はおよそ次のようになる。
「系図D」
1 2 3 4 5 6 7
伯固 ∥_|仇道 |多婁王∥_|己婁王(陳元達)
忍日女∥ |内礼∥_|奈解∥_|大新川 _ 清姫∥ |菊池姫(咄固の妃)
伊買∥_|昔 ∥ (難升米) |比メ古∥
(中川王) |高田姫
|比メ古∥_|胆咋 ∥_|五十琴
|十市根 _|汾西王∥
(都市牛利)|附志
|清姫
|玉姫
(哀邪本王の妃)
以上のように、
系図A、B、C、Dが3世紀後半から4世紀前半にかけての、
日本列島(九州大陸)と朝鮮半島、中国大陸における
歴史上の重要な人物で、
だれ一人残らず実在者である。
高句麗王、前新羅王統譜はみな、伯固の子孫であることが理解される。
仇道の子の末仇と休札夫妻の子孫は別に大切であるから、
次のような略系図を復原しておいて、補講として論じることにしたい。
「系図E]
3 4 5 6 7
末仇∥_|末仇2_|末仇3 _|扶余王玄 _|奈勿王
休礼∥ (比流王) (奈勿王356~) (~402)
|娘 |企利
この系図Eの6代目のときから、
石城別王との対婚が発生しているようなので、後に検討してみる。
なお、ついでのことであるから、
金官加羅国王統譜の後半部分(の一部)を解明しておきたい。
「系図F」
3 4 5 6 7 8 9
10 11
12
八坂王━大筒木垂根━息長日子王━千熊長彦━真浄 ━武内宿祢━石川宿祢━菅韓子 ━大河音宿祢
━都奴牟斯
奈解_|大新河 ━多婁 ━己婁 ━蓋婁 ━多遅麻 ━大別 ━戸田 ━紀生磐
━紀大磐 (伊尺品)(坐知) (吹希)
|十市根 ━汾西 ━胆咋 ━五十琴━伊呂弗 ━洛 _|木事 ━市川臣 ━久爾辛 (仲哀天皇) (阿華)
|木蓮子━太郎子 ━乎非王
F系図の五十琴が前首済13代近消古王(346~375)、
多遅麻が14代近仇古王(375~384)に該当することを、
前稿(「七支刀は同時代遭物か?」)において検討した。
F系図一列目(八坂王の列)の7代真浄までが
金官加羅国王統譜の前半である。
しかし、同王統譜の後半は、二列目(大新河の列)の
8代目多遅麻からに移行していることが理解されよう
(10代目戸田=的=紀小弓)。
この多遅麻が(「も」)
武内宿祢であることも前稿でみておいたことである。
11代目紀生磐以後については別項で鮮明する。
なお、大別は前百済16代辰斯王であり、
記紀の葛城長江襲津彦であることも、前稿で解明した。
さて、大筒木垂根、菅韓多羅夫妻について、若干の言及をしておくと、
この夫妻の名がどういう地名を反映しているかについては、
加治木先生の通信講座に導かれて前稿でおこなったし、
南朝鮮の「多羅」は僕自身は田中俊明氏の本を紐解いて確認した
(「大伽耶連盟の興亡と『任那』」吉川弘文館)ものの、
それだけではなんのことかわからない、
というのが正直なところである。
ところが、加治木著「おとぎ日本誕生」(徳間書店)によると、
竹取物語のかぐや姫は壹與であり、
その両親がこの難しい名の夫妻にあたるとなると、
話は別である。
本年のNHK教育テレビ新春番組でも、
これらの人々をモデルにした舞踏劇が放映されていた
(深夜長時間番組のフィナーレの部分)。
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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