2014年11月21日金曜日

第八代 阿逹羅尼師今②


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 第八代 阿逹羅尼師今(在位154年-184年)

 (原文)

 十三年春正月、辛亥朔、日有食之

 十四年秋七月、百濟襲破國西二城、虜獲民口一千而去。

     八月、命一吉飡興宣、領兵二萬伐之。

        王又率騎八千、自漢水臨之。

        百濟大懼、還其所掠男女、乞和。

 十五年夏四月、伊繼元卒、以興宣爲伊

 十七年春二月、重修始祖廟。

    秋七月、京師地震。霜雹害穀。

    冬十月、百濟寇邊。

 十八年春、穀貴民飢。

 十九年春正月、以仇道為波珍飡、仇須兮為一吉飡。

     二月、有事始祖廟。京都大疫。

 二十年夏五月、倭女王卑彌乎遣使来聘。

 二十一年春正月、雨土。 

      二月、旱、井泉渇。

 三十一年春三月、王薨。

 (訳文)

 十三年(166年)春正月、

  辛亥の日にあたる朔(ついたち)、日食が起こった。

 十四年(167年)秋七月、

  百済が国内西部の二城を撃破し、

  虜囚として一千人の住民を捕らえ帰った。

  八月、一吉飡の興宣に命じて、領兵二万を率いて百済を討伐させた。

   王もまた騎兵八千を率いて、漢水(漢江)よりこれに臨んだ。

   百済は大いに懼(おそ)れ、掠奪した男女を還して、和を乞うた。

 十五年(168年)夏四月、伊飡の繼元が死去したので、

             興宣を伊飡にした。

 十七年(170年)春二月、始祖廟を重ねて修理した。

        秋七月、王都に地震。霜と雹が穀物を害した。

        冬十月、百済が辺境で寇盗した。

 十八年(171年)春、穀物が高くて、国民が飢え苦しんだ。

 十九年(172年)春正月、仇道を波珍飡、仇須兮を一吉飡にした。

         二月、始祖廟で祭祀をした。

            王都に疫病が大いに蔓延した。

 二十年(173年)夏五月、倭の女王の卑彌乎が遣使を以て来訪した。

 二十一年(174年)春正月、土(つち)が降った。 

          二月、旱魃で井戸や泉が枯渇した。

 三十一年(184年)春三月、王が薨(こう)去した。

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
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第八代 阿逹羅尼師今①


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 《参考:年表・資料》

 第八代 阿逹羅尼師今(在位154年-184年)

 (原文)

 阿逹羅尼師今立。逸聖長子也。
 
 身長七尺、豊準有奇相。

 母朴氏。支所礼王之女。

 妃朴氏内礼夫人。祇摩王之女也。

 元年三月、以継元為伊飡、委軍國政事

 二年 春正月 親祀始祖廟 大赦

        以興宣爲一吉

 三年 夏四月 隕霜 開立嶺路

 四年春二月、始置甘勿馬山二縣。

    三月、巡幸長嶺鎮、勞戍卒、

       各賜征袍。

 (訳文)

 阿逹羅尼師今が即位した。

 〔阿逹羅尼師今は〕逸聖王の長男である。

 王の身長は七尺もあり、立派で優れた顔だちであった。

  母は朴氏で支所礼王の娘であり、

  王妃は朴氏の内礼夫人で祇摩王の娘であった。

 元年(154年)三月、継元を伊飡とし、軍事や国政を委任した。

 二年(155年)春四月、王自ら始祖廟を祀り、大赦を行った。

        興宣を 一吉飡にした。

 三年(156年)夏四月、霜がおりた。    
 
 四年(157年)春二月、初めて甘勿と馬山の二県を設置した。

        三月、長嶺鎮に巡幸し、兵卒らを慰労し、

         各々に袍(綿入れ)の軍服を賜った。

 (原文)

 五年春三月、開竹嶺。倭人来聘。

 七年 夏四月 暴雨 閼川水溢 漂流人家 金城北門自毀

 八年 秋七月 蝗害穀 海魚多出死

 九年 巡幸沙道城 勞戍卒

 十一年 春二月 龍見京都

 十二年冬十月、

  阿飡吉宣謀叛、發覚懼誅、亡入百濟。

  王移書求之、百濟不許。

  王怒出師伐之、百濟嬰城守不出。

  我軍糧盡。乃帰。

 (訳文)

 五年(158年)春三月、竹嶺(慶北栄州郡と忠北丹陽郡との境の峠)

        〔の道路〕が開通した。

        倭人が来り訪れた。

 七年(160年)夏四月、大雨が降り、閼川の水が溢れて、

        人家が流され、浸水した。

        金城の北門がひとりでに倒毀した。

 八年(161年)秋七月、蝗(いなご)が穀物を食い荒らした。

        海の魚が水から出て多く死んだ。

 九年(162年)〔王は〕沙道城に行幸し、守備兵たちを慰問した。

 十一年(164年)春二月、龍が王都に現れた。

 十二年(165年)冬十月、

  阿飡の吉宣が謀叛を企てたが発覚し、誅殺を恐れ、百済に亡命した。

  王は国書を送って彼の送還を要求したが、百済は認めず。

  王は怒って百済討伐の兵を出したが、百済は篭城して出撃せず、

  我が軍は食糧が尽きて帰還した。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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 高床式神殿
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2014年11月15日土曜日

三國史記 卷第二 新羅本紀第二 阿達羅尼師今


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 三國史記 卷第二 新羅本紀第二 阿達羅尼師今 (原文)

 阿達羅尼師今 立 逸聖長子也 身長七尺 豐準有奇相 母朴氏 支所禮王之女 妃朴氏内禮夫人 祇摩王之女也

 元年 三月 以繼元爲伊 委軍國政事

 二年 春正月 親祀始祖廟 大赦 以興宣爲一吉

 三年 夏四月 隕霜 開立嶺路

 四年 春二月 始置甘勿馬山二縣 三月 巡幸長嶺鎭 勞戍卒 各賜征袍

 五年 春三月 開竹嶺 倭人來聘

 七年 夏四月 暴雨 閼川水溢 漂流人家 金城北門自毀

 八年 秋七月 蝗害穀 海魚多出死

 九年 巡幸沙道城 勞戍卒

 十一年 春二月 龍見京都

 十二年 冬十月 阿吉宣謀叛 發覺懼誅 亡入百濟 王移書求之 百濟不許 王怒出師伐之 百濟嬰城守不出 我軍粮盡 乃歸

 十三年 春正月辛亥朔 日有食之

 十四年 秋七月 百濟襲破國西二城 虜獲民口一千而去 八月 命一吉興宣 領兵二萬伐之 王又率騎八千 自漢水臨之 百濟大懼 還其所掠男女 乞和

 五年 夏四月 伊繼元卒 以興宣爲伊

 十七年 春二月 重修始祖廟 秋七月 京師地震 霜雹害穀 冬十月 百濟寇邊

 十八年 春 穀貴民飢

 十九年 春正月 以仇道爲波珍 仇須兮爲一吉 二月 有事始祖廟 京都大疫

 二十年 夏五月 倭女王卑彌乎 遣使來聘

 二十一年 春正月 雨土 二月 旱 井泉渇

 三十一年 春三月 王薨

 ※出典:『古代史獺祭

《参考》

 ARPACHIYAH 1976

 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等


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靺鞨:百済始祖王は九州にいた隼人『三国史記』の記録


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 靺鞨:百済始祖王は九州にいた隼人『三国史記』の記録

 朝鮮半島の百済の前身だった馬韓(マカン)国。

 その名は何を意味しているのだろう。

 『三国史記』百済本紀第一の、始祖王の章に

 「其 世系 輿 高句麗 同 出 扶餘 故 以 扶餘 為氏=

  その王実は高句麗と同じく扶餘から出ている。

  だから扶餘を姓にしている」

 と百済王家が扶餘人=隼人出身だったことを特記している。

 扶羊風・扶揺風と書いて「ハヤのカゼ」と読む。

 扶餘もこれと同じ「ハヤ」という、発音への当て字の一つなのだ。

 ご存知のように位宮は高句麗・山上王だったから両王統に属している。

 この記事は真実である。

 また同じ章の二年と三年に

 「靺鞨(マカラ)が北の国境を荒らす」という記事が連続し、

 その八年には三千人が侵入してきて慰礼城を囲んだとある。

 この城の名は「イリキ」と読むと

 鹿児島県薩摩郡の「入来」町に一致するし、

 その靺鞨が兵糧がなくなって北へ戻ったのを

 追いつ追われつして戦った戦場も、

 大斧城(大野城(キ))=福岡、

 馬首城(マスキ)(益城)=熊本、

 瓶(カメ)山(亀山)柵=宮崎、

 立城(タキ=高城)柵=鹿児島と、

 全部が九州の地名と遺跡に合う。

 九州の北には朝鮮半島しかないし、

 そこにいて攻めてきた「マカラ」は、

 「馬韓」もまたマカラと読めるから、馬韓人だったのである。

 しかしこの時の馬韓人は必ずしも半島だけにいたとは限らない。

 馬の国=馬津国(マツラ)で、

 これは松浦=末盧国に一致するからである。

 ※出典:大学講義録14・26頁

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 『古代史獺祭
 『三国史記
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 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

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2014年11月12日水曜日

靺鞨:後漢代にシンドゥ教徒だった卑弥呼の両親


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 《参考:年表・資料》

 靺鞨:後漢代にシンドゥ教徒だった卑弥呼の両親

 日本語の中にサンスクリット語が入っているかご見当がついたと思う。

 しかもそれは必ずしも位宮以後とは限らない。

 それは卑弥呼が、

 もと天照大御神であることが確定している

 今では、明確にわかるものがある。

 彼女は伊是名島で伊弊諾尊・伊弉冉尊を両親にして生まれたからである。

 この両親の名乗りは島名の伊是名で、

 それはシバ神の別名の一つ「鯨・靺鞨魚(マカーラ)」を意味する

 インド語「イサナ」が語源で、

 日本には「勇魚(イサナ)」という当て字もある。

 この解釈がムリでない証拠は、

 同じ海域に同じ巨大魚・鯨を意味するインド語の

 「ガジャ(象)・ミナ(海)」にそのまま当て字した

 「臥蛇(カジャ)」島」が現存していて、

 その島の形がまさに象の頭によく似た頭をもつ、

 ゴンドウクジラそっくりであることは前にもお話しした。

 卑弥呼の両親は、間違いなく「シバ神を信仰するシンドゥ教徒」だったが、

 卑弥呼はその異常な髪の色でシンドゥ教徒には成れないというので、

 金髪を尊とぶギリシャ教徒のところへ送られて、

 天照大(ゼウス)神に仕える巫女・天照大衡神になったのであった。

 これは、

 いうまでもなく卑弥呼時代以前の沖縄にシンドゥ教があったことを、

 はっきり立証している。

 その正確な時期は卑弥呼が女王に共立された

 後漢の桓帝の時代(146~167年)である。

 ※出典:大学講義録24・24頁


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 『三国史記
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靺鞨:靺鞨(マッカツ)人の正体は松浦人、海人の国・末盧国と馬韓国


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 靺鞨:靺鞨(マッカツ)人の正体は松浦人、海人の国・末盧国と馬韓国

 「慕韓」は馬韓なのだろうか?。

 馬韓は、鹿児島半島南端の枕崎(マッラザキ)市のマッラから、

 九州北部の佐賀・長崎両県にまたがる松浦郡のマツラに移動拡大して、

 さらに朝鮮半島まで広がったものだった。

 これもマクラのマに馬の当て字をしたものだから、

 カラはクラと同じもの、

 その発音からみて、カンでなくカラだったのである。

 枕という当て字に意味がないとすると、

 そのもとの発音は「マカラ」で、

 これは海に棲む巨大な聖魚だとするインドの海の神である。

 枕崎は海港都市だから昔は海人の町で、

 その名がマカラだった可能性は非常に高い。

 するとそのはるか南にある臥蛇(ガジャ)島の名に結びっく。

 ガジャはインド語で象のことだが、

 マカラはガジャ・ミナ(水象・海象)とも呼ばれるからだ。

 この島が象と鯨の頭部によく似ていることも本講でお話ししたが、

 インドの宗教画には長い鼻をかかげた象の頭をもった魚が、

 海を泳いでいる絵が多数みられる。

 それがマカラである。

 『三国史記』には

 「靺鞨(マッカツ)」という敵が記録されている。

 この字がマカラなのだから、

 半島側からみた海からの敵、

 それは『魏書倭人章』が末盧(まつろ)国の風俗として描く、

 あの「水が深くても気にせず、昔、沈み潜って魚蝮をとる」

 人たち=松浦海人以外には考えられない。

 この松浦が半島と分離したのも大化改新以後なのだから、

 『三国史記』の読み方がわかる。

 ※出典:大学講義録33・29頁

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2014年11月11日火曜日

靺鞨:公孫氏の帯方=燕に属していた倭人連邦と三韓


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 靺鞨:公孫氏の帯方=燕に属していた倭人連邦と三韓

 三韓が倭国の拡大発展から生まれた地方自治体だったことは、

 ほぼご納得戴けたと思うが、それがどんな風に進行したか、

 そして魏の楽浪・帯方2郡ができるとどうなったか、

 という記録が『魏書・韓章』には、よくわかるように記録されている。

 短く要点だけお話ししよう。

 「桓霊(後漢の2帝)の末(170~180年代)、韓・濊(ワイ)は強盛。

  郡県は制御できず、多くの民が韓に流入した。

  建安(~220年)中、

  公孫康は屯有(トンユウ)県以由の荒地を分けて帯方郡にして、

  公孫摸と張敞(ショウ)を派遣、

  遺民を集めて兵を興し韓・濊(ワイ)を伐(う)つ、

  ……倭・韓はついに帯方に属す」。       

 214年に靺鞨(マカラ)が南鮮を荒らしたという記事はこのことである。

 そして公孫たちはまだ後漢の臣下で帯方郡も後湊の領土である。

 その時代には倭国も3韓も、

 その帯方郡の支配下にあったと、ここに明記してあるのである。

 後漢の衰えとともに倭人は半島へ勢力を拡げて行った。

 しかし公孫軍の反撃に敗れて九州までが

 「帯方郡」の中に入れられてしまった。

 それが後漢滅亡後、公孫氏の私物化していた。

 卑弥呼時代の倭人連邦は公孫氏の勢力下にあったのだ。

 『魏書倭人章』では三国時代の歴史以外は省略されて

 「倭国乱れ、相攻伐 歴年」としか書いてないが、

 『後漢書』はそれを「桓霊の間 倭国大乱」と明記している。

 卑弥呼が女王に共立された当時は、

 公孫氏の帯方、のちの『燕(エン)』国の支配下にあったのである。

 ※出典:大学講義録34・3頁

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