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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
第八代 阿逹羅尼師今(在位154年-184年)
(原文)
阿逹羅尼師今立。逸聖長子也。
身長七尺、豊準有奇相。
母朴氏。支所礼王之女。
妃朴氏内礼夫人。祇摩王之女也。
元年三月、以継元為伊飡、委軍國政事
二年 春正月 親祀始祖廟 大赦
以興宣爲一吉
三年 夏四月 隕霜 開立嶺路
四年春二月、始置甘勿馬山二縣。
三月、巡幸長嶺鎮、勞戍卒、
各賜征袍。
(訳文)
阿逹羅尼師今が即位した。
〔阿逹羅尼師今は〕逸聖王の長男である。
王の身長は七尺もあり、立派で優れた顔だちであった。
母は朴氏で支所礼王の娘であり、
王妃は朴氏の内礼夫人で祇摩王の娘であった。
元年(154年)三月、継元を伊飡とし、軍事や国政を委任した。
二年(155年)春四月、王自ら始祖廟を祀り、大赦を行った。
興宣を 一吉飡にした。
三年(156年)夏四月、霜がおりた。
四年(157年)春二月、初めて甘勿と馬山の二県を設置した。
三月、長嶺鎮に巡幸し、兵卒らを慰労し、
各々に袍(綿入れ)の軍服を賜った。
(原文)
五年春三月、開竹嶺。倭人来聘。
七年 夏四月 暴雨 閼川水溢 漂流人家 金城北門自毀
八年 秋七月 蝗害穀 海魚多出死
九年 巡幸沙道城 勞戍卒
十一年 春二月 龍見京都
十二年冬十月、
阿飡吉宣謀叛、發覚懼誅、亡入百濟。
王移書求之、百濟不許。
王怒出師伐之、百濟嬰城守不出。
我軍糧盡。乃帰。
(訳文)
五年(158年)春三月、竹嶺(慶北栄州郡と忠北丹陽郡との境の峠)
〔の道路〕が開通した。
倭人が来り訪れた。
七年(160年)夏四月、大雨が降り、閼川の水が溢れて、
人家が流され、浸水した。
金城の北門がひとりでに倒毀した。
八年(161年)秋七月、蝗(いなご)が穀物を食い荒らした。
海の魚が水から出て多く死んだ。
九年(162年)〔王は〕沙道城に行幸し、守備兵たちを慰問した。
十一年(164年)春二月、龍が王都に現れた。
十二年(165年)冬十月、
阿飡の吉宣が謀叛を企てたが発覚し、誅殺を恐れ、百済に亡命した。
王は国書を送って彼の送還を要求したが、百済は認めず。
王は怒って百済討伐の兵を出したが、百済は篭城して出撃せず、
我が軍は食糧が尽きて帰還した。
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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