2014年11月11日火曜日

靺鞨:公孫氏の帯方=燕に属していた倭人連邦と三韓


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 靺鞨:公孫氏の帯方=燕に属していた倭人連邦と三韓

 三韓が倭国の拡大発展から生まれた地方自治体だったことは、

 ほぼご納得戴けたと思うが、それがどんな風に進行したか、

 そして魏の楽浪・帯方2郡ができるとどうなったか、

 という記録が『魏書・韓章』には、よくわかるように記録されている。

 短く要点だけお話ししよう。

 「桓霊(後漢の2帝)の末(170~180年代)、韓・濊(ワイ)は強盛。

  郡県は制御できず、多くの民が韓に流入した。

  建安(~220年)中、

  公孫康は屯有(トンユウ)県以由の荒地を分けて帯方郡にして、

  公孫摸と張敞(ショウ)を派遣、

  遺民を集めて兵を興し韓・濊(ワイ)を伐(う)つ、

  ……倭・韓はついに帯方に属す」。       

 214年に靺鞨(マカラ)が南鮮を荒らしたという記事はこのことである。

 そして公孫たちはまだ後漢の臣下で帯方郡も後湊の領土である。

 その時代には倭国も3韓も、

 その帯方郡の支配下にあったと、ここに明記してあるのである。

 後漢の衰えとともに倭人は半島へ勢力を拡げて行った。

 しかし公孫軍の反撃に敗れて九州までが

 「帯方郡」の中に入れられてしまった。

 それが後漢滅亡後、公孫氏の私物化していた。

 卑弥呼時代の倭人連邦は公孫氏の勢力下にあったのだ。

 『魏書倭人章』では三国時代の歴史以外は省略されて

 「倭国乱れ、相攻伐 歴年」としか書いてないが、

 『後漢書』はそれを「桓霊の間 倭国大乱」と明記している。

 卑弥呼が女王に共立された当時は、

 公孫氏の帯方、のちの『燕(エン)』国の支配下にあったのである。

 ※出典:大学講義録34・3頁

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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