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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
靺鞨:公孫氏の帯方=燕に属していた倭人連邦と三韓
三韓が倭国の拡大発展から生まれた地方自治体だったことは、
ほぼご納得戴けたと思うが、それがどんな風に進行したか、
そして魏の楽浪・帯方2郡ができるとどうなったか、
という記録が『魏書・韓章』には、よくわかるように記録されている。
短く要点だけお話ししよう。
「桓霊(後漢の2帝)の末(170~180年代)、韓・濊(ワイ)は強盛。
郡県は制御できず、多くの民が韓に流入した。
建安(~220年)中、
公孫康は屯有(トンユウ)県以由の荒地を分けて帯方郡にして、
公孫摸と張敞(ショウ)を派遣、
遺民を集めて兵を興し韓・濊(ワイ)を伐(う)つ、
……倭・韓はついに帯方に属す」。
214年に靺鞨(マカラ)が南鮮を荒らしたという記事はこのことである。
そして公孫たちはまだ後漢の臣下で帯方郡も後湊の領土である。
その時代には倭国も3韓も、
その帯方郡の支配下にあったと、ここに明記してあるのである。
後漢の衰えとともに倭人は半島へ勢力を拡げて行った。
しかし公孫軍の反撃に敗れて九州までが
「帯方郡」の中に入れられてしまった。
それが後漢滅亡後、公孫氏の私物化していた。
卑弥呼時代の倭人連邦は公孫氏の勢力下にあったのだ。
『魏書倭人章』では三国時代の歴史以外は省略されて
「倭国乱れ、相攻伐 歴年」としか書いてないが、
『後漢書』はそれを「桓霊の間 倭国大乱」と明記している。
卑弥呼が女王に共立された当時は、
公孫氏の帯方、のちの『燕(エン)』国の支配下にあったのである。
※出典:大学講義録34・3頁
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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