2014年11月11日火曜日

靺鞨:正確な『三韓史』


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 靺鞨:正確な『三韓史』

 <馬韓>は<マカラ>で「靺鞨(マカラ)」と書かれた国、

 インド語のクジラ・鯨のことで百済(クダラ)、串良、

 臥蛇島・ガジャジマ(鯨島=ガジャミナ・鯨=インド語)を生んだ語源。

 弁韓はベンガルで南インド人の国だと判るから、

 南鮮の国々は薩南諸島からのインド系の人々、

 ソナカ仏教徒を中心とした「倭人」移住者の国だったことが判る。

 卑弥呼の直接支配地だったといっても絶対に間違いではない。

 なぜなら卑弥呼は別名の息長帯(ソナカシティ)姫

 (蘇那曷之帯(ソナカシティ)の妻・神功皇后)で、

 明確に「帯方郡」を意味する朝鮮半島の領主であることを

 名乗っているからである。

 それは高句麗を主軸にもつ天皇家の女王だから当然の名乗りだが、

 神功皇后の記録にある彼女がソナカ(仲哀天皇)と

 共に攻略した三韓は半島ではなく薩南諸島で、

 その結果が南鮮への大移動を生み、

 三韓が朝鮮半島にあることになったのである。

 だから<韓・カラ>の地名は今も

 「吾平=姶良=カラ」「韓国見嶽(からくにみだけ)」

 として南九州に名残りを止めている。

 こうみてくると鉄鉱山のない新羅地区の辰韓が

 「鉄を出す」と特記されている謎が解ける。

 こちらの辰韓は、

 朝鮮半島の辰巳(東南)の国という意味で、同じ名をもち、

 同じ人たちが住む2つの国の報告書が混同されて引用されたために、

 南鮮に鉄山があるという記事が誤載されただけで、

 真相は種子島の豊富な鉄資源倭人連邦人に広く使われていた記録である。

 ※出典:大学院講義録30・29頁

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
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2014年11月10日月曜日

第七代・逸聖尼師今


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 第七代 逸聖尼師今(在位134年-154年)


 (原文)

 逸聖尼師今立。儒理王之長子、或云日知葛文王之子。

 妃朴氏。支所礼王之女。


 四年春二月、靺鞨入塞、焼長嶺五柵。


 六年秋七月、隕霜殺菽。

  八月、靺鞨襲長嶺、虜掠民口。

  冬十月、又来、雪甚、乃退。


 七年春二月、立柵長嶺、以防靺鞨。


 九年秋七月、召羣公議征靺鞨。

  伊雄宣上言不可、乃止。


 十三年冬十月、押督叛、發兵討平之。

  其餘衆於南地。


 十五年、封朴阿道為葛文王

  (新羅追封王、皆稱葛文王、其義未詳)。


 二十年冬十月、宮門災。

  彗星見東方、又見東北方。


 二十一年春二月、王薨。 


 (訳文)


 逸聖尼師今が立った。儒理王の長子、あるいは日知葛文王の子ともいう。

 妃は朴氏。支所礼王の娘である。

 四年(137年)春二月、靺鞨が防壁から侵入し、長嶺の五柵を焼いた。


 六年(139年)秋七月、季節外れの霜が降り、豆類が枯れて死んだ。

  八月、靺鞨が長嶺に来襲し、住民を虜囚として掠奪した。

  冬十月、また来襲したが、雪が激しく、退却した。


 七年(140年)春二月、長嶺に柵を立て、靺鞨を防御する。


 九年(142年)秋七月、群臣を召集して靺鞨征伐を会議した。

  伊飡の雄宣が無理だと上奏したので、中止となった。


 「靺鞨」

  靺鞨(マツカツ)が続けて登場するが、

  粛慎の後裔は時代によって「挹婁、勿吉、靺鞨」と呼称を変えるが、

  靺鞨の名が登場するのは七世紀になってからのこと。

  従って、新羅本紀のいう靺鞨とは、

  高句麗か濊貊を指しているものと推察する。


 十三年(146年)冬十月、押督が謀叛、出兵して討伐し、

  これを平定した。

  その余の民衆は南の地方に移住させた。


 十五年(148年)、朴阿道を葛文王に封じた

  (新羅では王に追封する場合、

   皆が葛文王を称するが、その意味は未詳)。


 二十年(153年)冬十月、宮門が災害に遭う。

  彗星が東方や東北に現れた。


 二十一年(154年)春二月、王が薨じた。

 ※出典:新羅の歴史

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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三國史記 卷第一 新羅本紀第一 逸聖尼師今


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 《参考:年表・資料》

 三國史記 卷第一 新羅本紀第一 逸聖尼師今(原文)

 逸聖尼師今 立 儒理王之長子 或云日知葛文王之子 妃朴氏 支所禮王之女

 元年 九月 大赦

 二年 春正月 親祀始祖廟

 三年 春正月 拜雄宣爲伊 兼知内外兵馬事 近宗爲一吉

 四年 春二月 靺鞨入塞 燒長嶺五柵

 五年 春二月 置政事堂於金城 秋七月 大閲閼川西 冬十月 北巡 親祀太白山

 六年 秋七月 隕霜殺菽 八月 靺鞨襲長嶺 虜掠民口 冬十月 又來 雪甚 乃退

 七年 春二月 立柵長嶺 以防靺鞨

 八年 秋九月辛亥晦 日有食之

 九年 秋七月 召羣公議征靺鞨 伊雄宣上言不可 乃止

 十年 春二月 修葺宮室 夏六月乙丑 惑犯鎭星 冬十一月 雷

 十一年 春二月 下令 農者政本 食惟民天 諸州郡修完堤坊 廣闢田野 又下令 禁民間用金銀珠玉

 十二年 春夏旱 南地最甚 民飢 移其粟賑給之

 十三年 冬十月 押督叛 發兵討平之 徙其餘衆於南地

 十四年 秋七月 命 臣寮 各擧智勇堪爲將帥者

 十五年 封朴阿道爲葛文王 新羅追封王 皆稱葛文王 其義未詳

 十六年 春正月 以得訓爲沙 宣忠爲奈麻 秋八月 有星孛于天市 冬十一月 雷 京都大疫

 十七年 自夏四月不雨 至秋七月乃雨

 十八年 春二月 伊雄宣卒 以大宣爲伊 兼知内外兵馬事 三月 雨雹

 二十年 冬十月 宮門災 彗星見東方 又見東北方

 二十一年 春二月 王薨

 ※出典:『古代史獺祭

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

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 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 ハラフ期の土器について
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、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2014年11月9日日曜日

第六代・祇摩尼師今(3)


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 第六代 祇摩尼師今(在位112年-134年)


 次にかかげるのは新羅王の系譜の前半である。

                                                  ┌(7)逸勢─(8)阿達羅
 (1)朴赫居世─(2)南解─(3)儒理─┤ 
                                                  └(5)婆娑─(6)祇摩

                                                                      (13)金味鄒
                                                 ┌(11)助賁─┬(14)儒礼
     (南解の娘婿)    ┌太子滑正 ─┤         │
  (4)昔脱解─仇鄒─┤             └(12)沽解   └─乞叔─(15)基臨
                 │
                 └伊買──(10)奈解──于老─(16)訖解


 それを次の私(加治木義博)の読み方と比べてみてほしい。

 居世(コセ、イセ、イヨ)=巨勢=伊勢=伊予

 南解(ナソカイ、ナカ)=南海、中

 儒理(シュリ)=首里

 逸勢(イセ)=伊勢

 阿達羅(アタラ)=阿多国

 婆娑(ハセ)=長谷、泊瀬

 祇摩(キモ、クマ)=肝=熊

 脱解(タカ、タケ)=高、建、武

 仇都(キュウシュウ、クス)=九州、串

 伐休(ハルキ)=春木、開

 伊買(イカイ)=猪養、猪飼

 奈解(ナガ、ナカイ)=長、中井
 
 千老(ウラ)=浦

 訖解(キカイ)=鬼界

 基臨(キリ)=霧、霧島、桐

 これはどうみても日本語に対する当字である。

 南海の琉球地方から次第に北上してくる経路が

 わかるような名前が並んでいる。

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 ハラフ期の土器について
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 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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第六代・祇摩尼師今(2)


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 《参考:年表・資料》

 第六代 祇摩尼師今(在位112年-134年)

 (原文)

 四年春二月、加耶寇南邊。

 秋七月、親征加耶、帥歩騎度黄山河。

 加耶人伏兵林薄以待之、

 王不覺直前。

 伏發圍數重。

 王揮軍奮撃、

 決圍而退。


 五年秋八月、遣将侵加耶。

 王帥精兵一萬以繼嬰之。

 加耶城固守、会久雨。乃還。


 十年春正月、

 以翌宗為伊飡、昕連為波珍飡、林權為阿飡。

 二月、築大甑山城。

 夏四月、倭人侵東邊


 十一年夏四月、大風東来、折木飛瓦、至夕而止。

 都人訛言「倭兵大来」、

 争遁山谷。

 王命伊飡翌宗等諭止之。

 秋七月、飛蝗害穀、年饑多盗。


 十二年春三月、與倭國講和。

 夏四月、隕霜。

 五月、金城東民屋、陷為池、芙生。


 十四年春正月、靺鞨大入北境、殺掠吏民。

 秋七月、又襲大嶺柵、過於泥河。

 王移書百濟請救。

 百濟遣五将軍助之、

 賊聞而退。


 二十三年、春夏旱。

 秋八月、王薨。無子。

 (訳文)

 四年(115年)春二月、加耶が南の辺境を侵略した。

 秋七月、加耶に親征し、歩兵や騎兵を率いて黄山河を渡った。

 加耶人の伏兵が(草木が)密集した場所で待ち受けていたが、

 王は知らずにひたすら前進した。

 伏兵が現れ、幾重にも包囲した。

 王は軍を指揮して奮戦し、

 包囲を決壊させて退却した。


 五年(116年)秋八月、将兵を送って加耶に侵攻した。

 王は精鋭一万を率いて、これに密着して続いた。

 加耶は城を固く守っており、長雨になったので帰還した。


 十年(121年)春正月、

 翌宗を伊飡にし、昕連を波珍飡にし、林権を阿飡にした。

 二月、大甑山城を築いた。

 夏四月、倭人が東の辺境に侵入した。


 十一年(122年)夏四月、

 大風が東から来て、木が折れ、瓦が飛んだが、夕暮れになって止まった。

 都の人々は「倭兵が大挙来襲した」との誤報で、

 先を争って山谷に遁走した。

 王は伊飡の翌宗らに命じて、これを諭して止めさせた。

 秋七月、蝗が飛来し、穀物を害した。

 この年は飢饉で盗難が多かった。


 十二年(123年)春三月、倭国と講和。

 夏四月、霜が降りた。

 五月、金城の東の民家が陥没して池となり、芙(蓮)が発生した。


 十四年(125年)春正月、

 靺鞨が大挙して北境に侵入し、官吏や住民を殺し、掠奪した。

 秋七月、また、大嶺柵に来襲し、泥河を通過した。

 王は国書を送って百済に救援を請うた。

 百済は五人の将軍を派遣して、これを救助した。

 賊は情報を聞いて退却した。


 二十三年(134年)、春から夏に旱魃となった。

 秋八月、王が薨じた。嗣子はいない。

 ※出典:『古代史獺祭

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 『三国史記
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 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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第六代・祇摩尼師今(1)


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 第六代 祇摩尼師今(在位112年-134年)

 (原文)

 祇摩尼師今立。

 或云祇味。

 婆娑王嫡子。

 母史省夫人。

 妃金氏愛礼夫人。

 葛文王摩帝之女也。

 初婆娑王獵於楡飡之沢、太子従焉。

 獵後、過韓部、伊飡許婁饗之。

 酒酣、許婁之妻、携少女子出舞。

 摩帝伊飡之妻、亦引出其女。

 太子見而悦之、許婁不悦。

 王謂許婁曰

 「此地名大公於
此、 置盛饌美之、

  宜位酒多、

  在伊飡之上」。

 以摩帝之女、

 配太子焉。

 酒多後云角干。
 
 (訳文)

 祇摩尼師今が立った。

 あるいは祇味ともいう。

 婆娑王の嫡子。

 母は史省夫人。

 妃は金氏の愛礼夫人。

 葛文王摩帝の娘である。

 発端は、婆娑王が楡飡の沢で狩猟したとき、太子が従っていた。

 狩りの後、過韓部を通りかかり、伊飡の許婁が饗宴をもてなした。

 心ゆ
くまで酒を飲んでいると、許婁の妻が少女を伴って舞いを踊った。

 摩帝の伊飡の妻もまた自分の娘を引いて舞いに出てきた。

 太子はこの娘
を見て悦んだが、許婁は不愉快だった。

 王が許婁に曰く

 「この地をこれより大公と名付ける。

  山盛りの料理や美酒を設置してくれたから、


  宜しく伊飡の上位の酒多にしよう」。

 以て摩帝の娘を太子の配偶者にしたのである。

 酒多とは後にいう角干のことである。


 (原文)

 二年春二月、

 親祀始祖廟、拜昌永為伊飡以参政事。

 玉權為波珍飡、申權為一吉飡、順宣為級飡。

 三月、百濟遣使来聘。

 (訳文) 

 二年(113)春二月、

 王が始祖廟で祭祀を行い、昌永に伊飡を拝命させ、政事に参与させた。

 玉権を波珍飡、申権を一吉、順宣を級飡とした。

 三月、百済の遣使が来訪した。

 ※出典:『古代史獺祭

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《参考》

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 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2014年11月1日土曜日

三國史記 卷第一 新羅本紀第一 祇摩尼師今


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 三國史記 卷第一 新羅本紀第一 祇摩尼師今(原文)

 祇摩尼師今 立 或云祇味 婆娑王嫡子 母史省夫人 妃金氏愛禮夫人 葛文王摩帝之女也 初婆娑王獵於楡之澤 太子從焉 獵後 過

韓部 伊許婁饗之 酒酣 許婁之妻 携少女子出舞 摩帝伊之妻 亦引出其女 太子見而悅之 許婁不悅 王謂許婁曰 此地名大庖 公於

此 置盛饌美以宴之 宜位酒多 在伊之上 以摩帝之女 配太子焉 酒多後云角干

 二年 春二月 親祀始祖廟 拜昌永爲伊 以參政事 玉權爲波珍 申權爲一吉 順宣爲級 三月 百濟遣使來聘

 三年 春三月 雨雹 麥苗傷 夏四月 大水 慮囚 除死罪 餘悉原之

 四年 春二月 加耶寇南邊 秋七月 親征加耶 帥歩騎度黄山河 加耶人伏兵林薄以待之 王不覺直前 伏發圍數重 王揮軍奮撃 決圍

而退

 五年 秋八月 遣將侵加耶 王帥精兵一萬以繼之 加耶嬰城固守 會久雨 乃還

 九年 春二月 大星墜月城西 聲如雷 三月 京都大疫

 十年 春正月 以翌宗爲伊 昕連爲波珍 林權爲阿 二月 築大甑山城 夏四月 倭人侵東邊

 十一年 夏四月 大風東來 折木飛瓦 至夕而止 都人訛言 倭兵大來 爭遁山谷 王命伊 翌宗等諭止之 秋七月 飛蝗害穀 年饑多



 十二年 春三月 與倭國講和 夏四月 隕霜 五月 金城東民屋 陷爲池 芙 生

 十三年 秋九月庚申晦 日有食之

 十四年 春正月 靺鞨大入北境 殺掠吏民 秋七月 又襲大嶺柵 過於泥河 王移書百濟請救 百濟遣五將軍助之 賊聞而退

 十六年 秋七月甲戌朔 日有食之

 十七年 秋八月 長星竟天 冬十月 國東地震 十一月 雷

 十八年 伊 昌永卒 以波珍 玉權爲伊 以參政事

 二十年 夏五月 大雨 漂沒民戸

 二十一年 春二月 宮南門災

 二十三年 春夏旱 秋八月 王薨 無子

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 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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