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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
第六代 祇摩尼師今(在位112年-134年)
(原文)
四年春二月、加耶寇南邊。
秋七月、親征加耶、帥歩騎度黄山河。
加耶人伏兵林薄以待之、
王不覺直前。
伏發圍數重。
王揮軍奮撃、
決圍而退。
五年秋八月、遣将侵加耶。
王帥精兵一萬以繼嬰之。
加耶城固守、会久雨。乃還。
十年春正月、
以翌宗為伊飡、昕連為波珍飡、林權為阿飡。
二月、築大甑山城。
夏四月、倭人侵東邊
十一年夏四月、大風東来、折木飛瓦、至夕而止。
都人訛言「倭兵大来」、
争遁山谷。
王命伊飡翌宗等諭止之。
秋七月、飛蝗害穀、年饑多盗。
十二年春三月、與倭國講和。
夏四月、隕霜。
五月、金城東民屋、陷為池、芙生。
十四年春正月、靺鞨大入北境、殺掠吏民。
秋七月、又襲大嶺柵、過於泥河。
王移書百濟請救。
百濟遣五将軍助之、
賊聞而退。
二十三年、春夏旱。
秋八月、王薨。無子。
(訳文)
四年(115年)春二月、加耶が南の辺境を侵略した。
秋七月、加耶に親征し、歩兵や騎兵を率いて黄山河を渡った。
加耶人の伏兵が(草木が)密集した場所で待ち受けていたが、
王は知らずにひたすら前進した。
伏兵が現れ、幾重にも包囲した。
王は軍を指揮して奮戦し、
包囲を決壊させて退却した。
五年(116年)秋八月、将兵を送って加耶に侵攻した。
王は精鋭一万を率いて、これに密着して続いた。
加耶は城を固く守っており、長雨になったので帰還した。
十年(121年)春正月、
翌宗を伊飡にし、昕連を波珍飡にし、林権を阿飡にした。
二月、大甑山城を築いた。
夏四月、倭人が東の辺境に侵入した。
十一年(122年)夏四月、
大風が東から来て、木が折れ、瓦が飛んだが、夕暮れになって止まった。
都の人々は「倭兵が大挙来襲した」との誤報で、
先を争って山谷に遁走した。
王は伊飡の翌宗らに命じて、これを諭して止めさせた。
秋七月、蝗が飛来し、穀物を害した。
この年は飢饉で盗難が多かった。
十二年(123年)春三月、倭国と講和。
夏四月、霜が降りた。
五月、金城の東の民家が陥没して池となり、芙(蓮)が発生した。
十四年(125年)春正月、
靺鞨が大挙して北境に侵入し、官吏や住民を殺し、掠奪した。
秋七月、また、大嶺柵に来襲し、泥河を通過した。
王は国書を送って百済に救援を請うた。
百済は五人の将軍を派遣して、これを救助した。
賊は情報を聞いて退却した。
二十三年(134年)、春から夏に旱魃となった。
秋八月、王が薨じた。嗣子はいない。
※出典:『古代史獺祭』
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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