2015年1月17日土曜日

『日本書紀』の朝鮮半島関連記事① 


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 『Yahoo!天気・災害』
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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

『日本書紀』の朝鮮半島関連記事①

 「朝鮮半島記事抜粋」

 『日本書紀』における、

 初代神武(じんむ)天皇から第24代仁賢(にんけん)天皇までの

 記事の内、朝鮮半島との外交記事の抜粋である。

 この時代の朝鮮半島は

 新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高句麗(こうくり)の3国と

 伽耶(かや)諸国からなっていた。(三国時代)

 『日本書紀』では

 新羅は(しらき)と読み、

 高句麗は高麗(こま)と表している。

 加羅(から)または任那(みまな)と記されているのは、

 伽耶諸国または伽耶の一部のことである。

 尚、これらの記事について、

 新羅、百済、高句麗、伽耶のそれぞれを区別する為に、

 国名を特定出来ない韓(から)という記事は除いた。

 全部で55件ある。

 『日本書紀』の朝鮮半島関連記事 

 【01】崇神紀65年7月条:

   六十五年秋七月、

    任那國遣蘇那曷叱知、令朝貢也。

    任那者去筑紫國、二千餘里。

    北阻海以在鶏林之西南。

   六十五年の秋七月、

    任那国、遣蘇那曷叱知を派遣して、朝貢してきた。

    任那は筑紫国を去ること、二千余里。

    北、阻海を阻てて鶏林の西南に在り。

 【02】垂仁紀2年是歳条:

        ◎是歳、任那人蘇那曷叱智請之、欲歸于國。

     蓋先皇之世來朝未還歟。

     故敦賞蘇那曷叱智。

     仍齎赤絹一百疋、賜任那王。

     然新羅人遮之於道而奪焉。

     其二國之怨、始起於是時也。 

    【一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、

     泊于越國笥飯浦。

     故號其處曰角鹿也。

     問之曰、何國人也。

     對曰、意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等。

     亦名曰于斯岐阿利叱智干岐。

     傳聞日本國有聖皇、以歸化之。

     到于穴門時、其國有人。

     名伊都都比古。

     謂臣曰、吾則是國王也。

     除吾復無二王。故勿往他處。

     然臣究見其爲人、必知非王也。

     即更還之。

     不知道路、留連嶋浦、自北海廻之、

     經出雲國至於此間也。

     是時遇天皇崩。

     便留之、仕活目天皇逮于三年。

     天皇問都怒我阿羅斯等曰、欲歸汝國耶。

     對諮、甚望也。

     天皇詔阿羅斯等曰、汝不迷道必速詣之、

     遇先皇而仕歟。

     是以改汝本國名、追負御間城天皇御名、便爲汝國名。

     仍以赤織絹給阿羅斯等、返于本土。

     故號其國謂彌摩那國、其是之縁也。
  
     於是、阿羅斯等以所給赤絹、藏于己國郡府。

     新羅人聞之、起兵至之、皆奪其赤絹。

     是二國相怨之始也。

    ◎是歳、任那人蘇那曷叱智請さく、

     「国に帰りなむ」とまうす。

     蓋し先皇の世に来朝て未だ還らざるか。

     故、蘇那曷叱智に敦く賞す。

     仍りて赤絹一百疋を齎たせて、任那の王に賜す。

     然して新羅人、道に遮へて奪ひつ。

     其の二の国の怨、始めて是の時に起る。

    【一に云はく、御間城天皇の世に、額に角有ひたる人、

     一の船に乘りて、越の国の笥飯浦に泊れり。 

     故、其処を号けて角鹿と曰ふ。

     問ひて、曰はく、「何の国の人ぞ」といふ。
 
     対へて曰さく、

     「意富加羅国の王の子、名は都怒我阿羅斯等。

      亦の名は于斯岐阿利叱智干岐と曰ふ。

      伝に日本国に聖皇有すと聞りて、帰化く。

      穴門に到る時に、其国に人有り。

      名は伊都都比古。

      臣に謂りて曰はく、

      『吾は是の国のなり。

       吾を除きて復二の王無。故、往他処に往にそ』

      といふ。

      然れども臣、究見其の爲人見るに、

      必ず王に非じといふことを知りぬ。

      即ち更還りぬ。

      道路を知らずして、嶋浦に留連ひつつ、

      北海より廻りて、

      出雲国を経て此間に至れり」まうす。

     是の時に、天皇の崩りたまふに遇へり。

     便ち留りて、活目天皇に仕へて三年逮りぬ。

     天皇、都怒我阿羅斯等に問ひて曰はく、

     「汝の国に帰らむと欲ふや。」とのたまふ。

     対へて諮さく、「甚望し」とまうす。

     天皇、阿羅斯等に詔せて曰はく、

     「汝の道に迷はずして必ず速く詣れらましかば、

     先の皇に遇ひて仕へたてまつらし。

     是を以て、汝が本国の名を改めて、

     追ひて御間城天皇の御名を負りて、

     便ち汝が国の名にせよ」とのたまふ。

     仍りて赤織の絹を以て阿羅斯等に給ひて、

     本土に返しつかはす。

     故、其の国を号けて彌摩那国と謂ふは、

     其れが是の縁なり。

     是に、阿羅斯等、給はれる赤絹を以て、

     己のが国の郡府に藏む。

     新羅人聞きて、兵を起して至りて、皆其の赤絹を奪ひつ。

     是の二の国の相怨むる始めなりといふ。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年1月16日金曜日

日本古代王族の婚姻系譜⑪


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 《参考:年表・資料》

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 出典:柿本一征(かきもとかずゆき)・言語復原史学会正会員

 ≪日本古代王族の婚姻系譜≫


 「布都久留の鹿児島王朝」

 4 布都久留の鹿児島王朝、カゴサカ・オシクマ皇子は

 鷲住王の息子

 百済13代近肖古王(五十琴宿祢)の長男は伊呂弗で、

 蓋婁王の娘玉彦姫との間に真椋、洛、飯豊青の

 三人の子がいた。

 真椋はマクラ=枕で、鹿児島県の枕崎である。

 玉彦姫の兄多遅麻連公の后は安姫で、

 安姫は五十琴の妹五十琴姫(弟姫)の娘であり、

 父は五十功彦である。

 多遅麻には玉彦姫の他に、

 もう一人の妹(中姫=可足渾)がいた。

 さて、伊呂弗にも妹がいた…と前提(想定)して、

 これらの人物の周辺の系譜を作成する。

 その前に、履中6年2月の系譜の意味を解明しておくと、

 実にスバラシイ発見が出来る。

 それは次のようになっている。

 鮒磯(ふなし)別王━|鷲住王(履中天皇の妃の太姫郎姫は鮒磯別王の
           |太姫郎姫∥   娘で、鷲住王の妹だ…。)
            履中天皇∥


 「履中天皇は多遅麻」

 これを論証抜きで解明すると、次のようである。

 実は名前を入れ替えるだけで論証になっているのである。

 「系図M」

    7       8         9 

 |五十琴
 |五十琴姫 ∥
  (弟姫)   |驚住王      応神天皇∥
  五十功彦 ∥_|安姫    ∥_|山無姫 ∥
         (本姫郎姫)   |大別
 |清姫     ∥        |オナベ姫
  蓋婁王(陳安)∥_|多遅麻 ∥
           |中姫

 このように、鮒磯別王=五十功彦に他ならない。

 すると、

 前稿(「七支刀」)で多遅麻が

 百済14代近仇首王と解明しているから、

 百済本紀にある近仇首王の男(しゅうと)の真高道は、

 多遅麻の妃の父の五十功彦(=鮒磯別王)ということになる。

 応神天鼻の妃の別名の一つは太姫であるから、

 安姫(太姫郎姫)━太姫(山無姫)と、

 母と娘が同じ部分(「太姫」)を含みもっていて、

 天孫本紀は

 「山無姫(太姫)は履中6年2月条の太姫郎姫(安姫)の

  娘なんだ、

  その履中天皇は多遅麻のことなんだ、気付いてくれ」

 といっているのである。

 天孫本紀の麦入宿祢(「畑井系図」では

 伊呂弗の弟の位直にある《いる》)の妃は

 全能姫で目古連の娘とある

 (p8畑井弘「新版物部氏の伝承」三一書房参照)。

 この部分も世代関係を修正しないと、

 全く意味不明で歴史を解明する役に立たない。

 証明(修正の仕方は前稿(「七支刀」)の

 五十功彦の部分と同じだから省略して、

 真椋=麦入=伊呂弗の息子(長男)である。

 これらの人物の相互の婚姻をを系図にすると次のようになる。

 「多遅麻の系譜」

 「系図N」

      7           8     9     10

           多遅麻∥ |山無姫
    五十功彦∥_|安姫 ∥_|大別 ∥ |葦田
      |五十琴姫          福寿 ∥_|中磯姫
          |鷲住王∥       |里姫
                      |戸田
     香児姫∥ |娘  ∥ |カゴサカ皇子
          (伊呂弗  |オシクマ皇子
            の妹) |全能姫∥_|辞姫
   |五十琴 ∥_|伊呂弗        |大前
   |清姫  ∥      _|真椋 ∥ |小前
    蓋婁王 ∥_|玉彦姫∥  (麦入) |石持
    (陳安)
          |中姫   |洛  ∥ |小事
          |多遅麻   山無姫∥_(阿華王)
                      |木蓮子
                      |汝妹(多彼)


 「蓋婁王に関連のある地名」

 この蓋婁王と香児姫が兄妹であることは、

 前稿で既に確認している。

 驚住王は驚羽山=岡山県、住は住之江(博多湾?)、

 枕崎の真椋が「麦入」だとすると麦は妻木だから

 都満・霧(之固)、入=入来(いれき)である。

 「全能」はマッタクノだからマッタ(馬田、末羅)、

 マッ(タ)クラ(ノ=ロ=ラ、no=ro=ra)=マクラ(=真椋)

 だから、

 夫婦として同じ名前になるようになっている。

 10代目の世代の石持連について、

 右京諸蕃下に「石野連は百済国人の近速古王(近肖古王)の

 孫憶頼福留(真掠に相当)の後也。

 続紀天平宝字5年条百済人憶頼子老ら41人に

 石野連の姓を賜う、

 とあるから、

 五十琴(近肖古王)-伊呂弗-真椋-石持連…石野連

 ということになり、

 この系譜の信憑牲を証明する。

 憶頼は巨椋と同じ

 (京都伏見の巨椋池やマ・クラの倒置の

  クラ・マ=鞍馬寺の名とかかわりがある)である。

 速古=ハヤ・フルで隼人町・夫余で、

 近肖古王の都が南九州だったことがわかる。

 大前小前は御前(オマエ→ミサキ)と同じだから、

 地御前(広島県。ジゴゼンと読むがチのオマエとも読める)、

 赤穂岬(御前)、

 河内の「お日の御前」(谷川前掲書)の地名は

 彼らの進出地であることを示している。

 岡山県和気郡日生町=日の御前

 (ヒのゴゼ→ヒのゼ→ヒなゼ→ヒなセ=ひなせ)→日生。

 大前小前が日(種子島、豊前豊後)の

 神前(お上)だったのである。

 赤穂は阿華・穂になる。

 島根県日の岬(御崎)は多遅麻や伊呂弗は

 若狭まで進出していた

 (小林「4C」)ことから類推できるのではないか。


 「裏返しの系譜も完全一致 史実確認の一手法」

 但し、この系図は上のパターンと少し違うではないか、

 と、不満として、

 この裏返しの系図を求めてみると、

 完全に一致する系図が得られる。

 「系図P」

    紛西 _|胆咋      ∥_|五十琴    ∥_|伊呂弗
        (景行天皇)   (彦人大兄王)   (大名方王)
         比メ古  ∥  香児姫    ∥  |大中姫    ∥_|全能姫
        (カグロ姫)     (銀王)        鷲住王    ∥  |カゴサカ皇子
                                                 (仲哀天皇)   |オシクマ皇子

 鷲住王の妹も娘も、とにかく、

 はらわたに染みる声を出して泣く女性だったと

 仁賢6年条に書いてあるから、

 内礼=奈良姫(奈落=浄土=葬式に従事した女性)だったのである。

 布都久留である枕流王は384、385年の在位だから、

 この頃、

 苻洛は命もからがらに「枕崎に流れ着いた」

 (「枕流」王の意味するところ)のである。

 この頃、彼(苻洛=布都久留=応神天皇)の従兄弟にあたる

 カゴサカ、オシクマ皇子がなんらかの事情があって

 (「応神天皇の即位を妨げようとした」ということから類推)、

 両者の間に攻防があったということで、結果的には布都久留が勝利した。

 ここで僕が考察したいことの力点は、

 両者の攻防の内容や因果の究明にあるのではなく、

 神功皇后が赤ん坊の応神天皇を連れて

 (武内宿絹がおんぶだか抱っこだかして)

 近畿地方に攻め込んだ…という、

 多くの従来説のいい加減さについて、ということである。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2015年1月15日木曜日

日本古代王族の婚姻系譜⑩


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 ≪日本古代王族の婚姻系譜≫


 「「国造り」=「よみがえり」世界観の象徴」

 どんな小さな国(邦)でも、新しく邦を始めるときには、

 その邦のシンボルとなるものを設定する

 (ヘソ石を据える、山中の岩を割る、小山を築く、

  杭を打つ、木を植えるなど)、

 あるいはそういう行為を為すのである。

 こういうものを築造して王の権威の高揚を図る

 (築造するだけの力量を誇示する)、

 あるいは国民意識の高揚の効能もあるであろう。

 いずれにしても、奴隷労働などではありえない、

 ということはいえる。

 立岩から割石一つ切り出すにしても、

 国民総動員で力を合わせて運搬したのである

 (総動員というのは直接間接という意味である。

  男はロープを引っ張り、女は食事をつくった

  《かどうかはわからないが》)。

 それが国造りというものだからである。

 ある時期(四世紀初頭~およそ前半)、

 ある集団にとっては、

 丘の中腹に列石施役の築造がそれに該当した、

 というだけのことである。

 それにしても、

 こんな大それた施設を軍事目的以外の目的で築くということは、

 相当に強く大きな、意識的、生産力(国力)的な

 インパクトがあったのに違いない。

 世界観の断裂があったと表現出来る程度のそれである。


 「帯隈山と倭王」

 次は、帯隈山についてであるが、

 結論としては真浄が築造者だったのではないか、

 ということであるから、

 真浄が倭王であることは間違いないといえる

 (茶臼山の茶臼はチャンスン=男将軍?)。

 加治木著「邪馬壹国の言葉」(コスモ出版)の中に

 「尾=隈=倭=ウアイ」という部分がある

 (p190)から、帯隈➩隈帯➩倭帯で倭王になる

 (少なくともそういう意味が含まれているといえる)。

 黒住秀男他共著「古代日本と海人」(大和書房)p159によると、

 吉野ケ里に近い霊山金立山

 (徐福伝承で名高い、帯隈山遺跡に近い)の

 西方約三キロ地点に大和町「有ノ木」という地名がある。
 
 そこは有明海から嘉瀬川をさかのぼったところ。

 海人がきた可能性が大きい、とある。


 「アンビトリテとポセイドンの系譜」

 同著は「有木」地名の分布を全国的に調査しているうちの

 一部分である。

 他に昭文社のエアリアマップで

 帯隈山列石遺跡周辺の地名を調べていると、

 筑紫郡に「網取」という地名がある。

 有木、有ノ木は阿爾(濔)今の音韻変化であり、網取も、

 ① 阿濔の棟梁(結局阿爾兮)、

 ② 奄美王、

 ③ アンビトリテの省略形

  (アマミはアンビトリテのアンビの音韻変化、

   アンビトリテはギリシャ神話の

 ポセイドンの妻・加治木通信講座)、

 である(Ambitorite?Amitori)。

 有ノ木、網取の二つの地名は、

 どちらからみても次の系譜と重なっている。     、

 「系図K」

 2     3      4  

    5      6  7    8     9



 伊買∥_|阿爾兮∥_|菅韓多羅∥_|息長 ∥_|千熊━真浄 ━竹内宿祢━石川宿祢
 内礼∥  臣潰沽∥  大筒木垂∥  日子王   長彦(網取 )(網浜) (湊)
     (清日子)  根      附志∥
     (天日槍)        |壹與 ∥_|咄固━美川王━故国原王━伊集院王
                                      位宮  ∥         (天日鉾)
            中日女  ━ 多婁  ━ 己婁━蓋婁 ━岡陋姫 ━|山無
            時姫   ━ 汾西  ━ 胆咋━五十琴━伊呂弗 ━ 洛


 「列石施設築造は石氏の事業だったか?」

 息長日子王の妃附志は汾西の妹で、

 この汾西、附志はフシ=フジ=葛(フジとも読む)=百済

 (フシ?クダラは後の時代の発音)で、

 汾西の子孫(孫)の五十琴宿祢は第13代百済王

 (近肖古王346~375)と解明されるから、

 汾西も、その妹の夫息長日子王も間違いなく

 百済殿(ポセイドン)なのである。

 真浄も百済本紀の近肖古王の立場から表現すると

 「朝廷佐平」であるが、

 前金官加羅国の立場でいうと、

 彼自身が前金官加羅国王=倭国王=倭帯(タラシ)=

 帯隈(山列石遺跡)

 ということになる

 (前文の繰り返し)。

 美川王の妃の父は石勒で、

 石氏は羯族の長で、

 羯族の宗教はゾロアスター教だった

 (小林「4C」p215)とある。

 真浄の弟にあたる石虎は「大土木工事をおこすのを好んだ」

 (p400陳舜臣前掲書)。

 石虎が趙王を潜称したのが334年、

 没年は449年(後趙)だから、

 列石施改築造の企画立案や現場監督の任務について

 いたこともあったのではないか…という

 程度のところまでは、推理が出来る。

 同じ圏内の列石遺跡のうち、

 把木遺跡の把木は葉木、抜奇と同じだから、

 K系図を少し変更すると、

  2      3      4      5    6   7    8

 抜奇 ∥_|八坂王∥_|大筒木垂根∥_|息長 ━千熊 ━真浄 ━武内宿祢
 竹野姫∥  真敷 ∥  菅韓多羅 ∥  日子王 長彦 (把木)(把木)

 となって、

 把木遺跡は武内宿祢が築造者なのではないか、

 という推測も成立するが、

 今はおつぼ山、雷山、帯隈山遺跡の築造者推定だけで

 満足することにしたい。


 「イトと五十跡手と天の日槍系譜」

 肥前国風土記逸文に

 「高麗の国の意呂山に天から降ってきた

  日槍の末裔の五十跡手とは私のことです、

  といったところ、

  天皇はお前五十跡手の本拠地を

  恪勤(いそし)の国というがよいといったのが、

  訛って恰土の郡というようになった」

 というような意味のことが書いてある。

 恰土郡は今の前原市、旧糸島郡の糸郡である

 (この糸島郡《現前原市》は

 魏書倭人章の「伊都国」と誤解されていることで有名であるが、

 後の時代の地名を三世紀半ば当時のものと誤認したもので、

 倭人章の伊都国は佐賀市一帯である)が、

 「この恰土国は日槍の同族が建てた国」

 (浮田洋太郎「ヤマト国家成立の秘密」・新泉杜p77)

 と判定して間違いない。

 日槍の系譜はK系図を少し変えさえすれば、

 簡単に理解できる。
   
  2      3      4      5     6   7   8

 仇道 ∥_|臣潰沽 ∥_|菅韓多羅∥_|壹與∥_|咄固━美川王━故国原王
 公孫度∥  (清日子)  大筒木 ∥  位宮∥        (天日槍の
 の宗女   (天日槍)    垂根∥ (熊襲タケル)    末裔五十跡手)
       阿爾兮 ∥

 五十跡手が仲哀天皇に降伏したのは354年のことだが、

 362年になると逆に仲哀天皇(=五十琴の長子伊呂弗)を

 戦死させているのである。

 (故国原王=熊襲、故国原王は熊毛郡=南九州《襲》と

 南西諸島の王)

 (仲哀9年=362年、

 肥前国風土記逸文基肆郡姫杜郡粂=あらぶる神がいて

 道行く人を殺した=仲哀天皇戦死)

 (前掲文の同義反復)。

 降伏した時に既に恰土郡にいたのだから、

 そこは故国原王の領地だったことになる。

 「人物史が読み取れる「人名」」

 父美川王が放棄して逃亡した肥前を、

 息子の故国原王が回復(奪還)していたということになる。

 なお、大筒木垂根の別名屋主忍男武雄心命の中に

 「武雄=武雄市」がふくまれていることは

 前稿(「七支刀」)でもみておいた。

 勢力は消長するし、人は情勢によって激しく移動する。

 人名は、

 単に領地を示す(名乗り)だけでなく、注意して考察すると

 (その人物の別の記録の解釈も加味するなどして)

 その人物の行動

 (何処から何処へ)が見えてくることが少なくない。

 吉備(岡山県)の開拓はどこからみても、

 王族の系譜の範囲でいうなら、

 既に抜奇(卑弥呼の弟)の代から始まっていた

 (2世紀末)ようである

 (「抜奇勢力出雲上陸」参照)。

 318年、半島で慕容傀に敗退した美川王は、

 姫島(国東半島の沖合)、

 安芸宮島を通過して(山口県でイツツヒコに妨害されている)、

 抜奇の子孫の己婁王(陳元達)や蓋婁王(陳安)が

 居住していた地(現在の総社市一帯)の

 隣地(東岡山市一帯?)を譲ってもらって、
 
 終の棲家に定めたのだった、という図式になる。

 同族のよしみがあったからこそのことである。

 おつぼ山遺跡は318年以前に築造されていた、

 ということになる。


 「美川王と蓋婁王」

 美川王と蓋婁王との「同族のよしみ」を系図で確認すると、

 次のようになる。

 「系譜L」

   4        5      6     7

 |大筒木垂根  ━|息長日子王
 (息長宿祢王)  |壹與    ━咄固  ━美川王
           (息長帯姫)
 |中日女 ∥
  大新河 ∥  _|多婁王∥━|己婁王∥_|蓋婁王
           清姫 ∥  清姫 ∥

 美川王の父方の曾祖父と、

 蓋婁王の父方の曾祖母とは兄と妹の仲だったのである。

 この己婁王が陳元達、蓋婁王が陳安の別名であることは

 後にみる。

 なお、美川王の勢力は

 南廻りの有明海ルートと、

 西方廻りで伊万里市(伊万里湾)に

 抜ける陸のルートがあったろうことが、

 その地形と地名から考察出来ると思うが、

 詳細な吟味は今は別のテーマである。

 「五十跡手の言語復原」

 五十=イソ=磯=磯城=隼人町、五島列島。

 イト=恰土郡(現在の前原市)、

 跡=ト=投(馬国)、アト=アタ=吾田、手=タ=立岩

 (伊万里湾の沿岸部にも立岩という地名がある)。

 354年から362年、伊呂弗

 (その妃玉彦姫の別名岡陋オカヤ姫=遠賀水門の支配者で

   両者の子は「竺志連」「鍛冶師連」とある)

 と故国原王(五十跡手)は、

 「崗水門」の領有をめぐって激突したのであるから、

 そこはどちらにとっても要衝の地だった

 (当然といえばあまりにも当然だが)。

 こうした最終的な戦闘行為を回避する手段として

 領有権の分有ということがあるはずだが、

 譲れない事情があると、生死を賭けての対決になる

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年1月14日水曜日

日本古代王族の婚姻系譜⑨


 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 出典:柿本一征(かきもとかずゆき)・言語復原史学会正会員

 ≪日本古代王族の婚姻系譜≫


 「壹與をとりまく仏教名と列石遺跡」

 壹與は卑弥呼の宗教的後継予定者であったのであり、

 血縁者でもある(卑弥呼や弟の曾孫)が、

 シーラバッガ派(シンドー教の一派)の位宮の養女として

 (加治木著書及び通信講座)、

 女王に共立され、自らは天御中主(ビシュヌー教徒)になった。

 三角縁神獣鏡は卑弥呼の好物(鏡)と、

 シンドー(西王母東王父、神獣)教を

 折衷した要素を表現したもの=ビシュヌー教徒を

 意味しているのではないだろうか。

 壹與は結果として卑弥呼の仏教倭国を排して(タタス《仏を去る?》)、

 ビシュヌーの倭国女王として宗教的に成長した女性である、

 という意味が含まれている。

 おつぼ山列石遺跡のすぐ目の前の山が「立岩」である

 (…使用された石材は安山岩質のもので、杵島山の各所で見られ、

  おつぼ山に近い立岩付近がその石材採集加工地といわれている。

  立岩は神籠石の北東約800mに位置し、

  おつぼ山東側によく見える一武堆市教育委員会による掲示板より)。

 以上から、以下の図式が得られそうである。


 壹與     --咄固(儒礼王)- 美川王(肥前王)-故国原王

 朴赫居世       (基臨王)  300~331  331~371

 富登        岐(黄、気)  多多須      良伊(雷)

 穂・投        霧(之国)  立の(立岩の)     

 伊勢(伊須須)    

 伊江島=依

 壹国=依、姫木山          おつぼ山列石遺跡 雷山列石遺跡


 「列石遺跡と山城」

  故国原王は前出のように335年、342年に城を築いた

 (およそ岩で築く山城)という記録があり、

 列石遺跡と半島の山城との類似性は、

 その両方を観察した人が一様に表現しているから

 (僕は半島の山城は本の写真を見るだけ)、

 上のような相関関係になることが、初歩的ながらいえる。

 おつぼ山列石遺跡は規模が最も小さく、

 最も素朴な印象がするから、

 相対比較上(比較遺跡学的にいって)

 一番始めの築造物といえるのではないか。

 それに、所在位置的にも一番西に位置している遺跡である。

 築造目的(なんのために築造したのか、

 何を築造したのか)については、おつぼ山に限らず、

 ほとんどが山城説=山城として築いた

 (あるいは、神域説は退けられて山城(跡)説に

  落ち着いた(結論になった)、というものである。

  この遺跡については「権威ある学説?」

 などというものは適用しないから

  (僕も含めてあれこれいっているだけ)、

  どのようにいわれているかを知るだけで十分なので、

  二つだけ紹介する(ほかのものも大同小異である)(その部分だけ)。

 「観光パンフレット(おつぼ山)」

 昭和36年に発見されたとき、水門、木柵を立てた穴、

 列石の上の土塁などが認められ、

 神籠石を山城とする説の決め手となった。

 石城山(山口県、大和町教育委員会)

 昭和38、39年、

 国の文化財保護委員会と大和村との共同による発掘調査の結果、

 従来知られていなかった空壕、桂穴、版築工法による

 大土塁が数百メートルにわたり発見され、

 神籠石式古代山城の一つであるといわれるようになった。


 「神篭石=山城説の決め手・おつぼ山遺跡」

 これらの文中にある「土塁」は7世紀後半に、

 別の目的

 (強制的奴隷労働=奈良の亀石施設と

  その周辺の大土木工事と機を一にしたもの)に

 よって行われた工事で、エネルギーを消耗させるためだけの

 工事(労働のための労働)である。

 一例だけ上げると、

 おつぼ山の何番目かの水門は比較的小規模であるが、

 美しいものである(芸術的印象を受ける)が、

 それでさえもスッポリと土塁で覆い隠されていたものを、

 (昭和36年に?)土塁を除いて水門が

 見えるようにしている部分がある。

 これだけでもいえることは、

 列石遺跡築造の時期に、

 土塁は存在していなかったことがわかる、

 ということである。

 日の前に美しい水門が見えていて、

 そこからトウトウと水が流れ落ちていてこそ、

 水門施設築造の目的に適うのだから、

 ことさらそれを土塁で覆い隠す必要はないし、

 もし山城施設用の水門なのであれば、

 それは単なる排水施故でさえあれば十分なのであって、

 なにも芸術牲を志向する必要性は皆無である

 (実用牲だけが意味をもつ)。

 巨大な鬼城や御所が谷遺跡ならまだしも

 (山城か杏か吟味する値打ちがある)、

 一番低平なおつぼ山や、鹿毛馬、永納山遺跡を

 「山城跡」と判定するのは、

 およそ合理的な知性の範疇を逸脱している、としかいいようがない。

 列石施設築造時期には、土塁は無関係と考察する必要がある

 (頭の中で土塁を消去して、もとの施故をイメージする)。


 「儀礼施設としての列石築造物」

 これら十数例の列石遺跡は全て数百年(三百数十年)の年代差を

 含み持つ複合遺跡なのである。

 施設築造の目的は、国立(建)

 (正確にどういう学術用語がよいのか僕には解らない)-

 我らが叢の象徴を造る(造った)ということだったのではないか、

 と考察する。

 列石は丘(又は小高い山)の中腹を上昇したり、下降したりして、

 低平面に降りているものもある(おつぼ山や鹿毛馬の場合)から、

 これは、必ずあの世(冥界)と

 この世(現世)の境界(境目)を意図している。

 これらの施設が例外なく強調している水門、泉、門

 (城門などではない)、

 崩れ(混沌=カオス)、

 オンパロス(これら施設内邸には必ず象徴物がある)などは、

 全て宗教的、宇宙観、世界観、信仰的な意味でのよみがえり

 (=冥界を潜ってこの世に復帰する)の象徴である

 (この部分は「境界論」の専門家の領分である)。

 このことから、僕は当初、

 「王の即位のための施設」だったのではないか、

 との素人的直観的想定のもとに、観察、考察、研究を出発した。

 首尾よく完成の暁には、

 その築造者は必ずなにがしかの儀式儀礼を

 その施設を利用して行っていることは間違いないし、

 年々の儀式儀礼においても、王ただ一人だけだったか、

 あるいは国民も含めての集団がそうしたか否かは不明だとしても、

 更新儀礼施設としても利用された筈である。

 王が即位儀式をおこなう施設として築くこともありうるし、

 完成された施設を利用して即位儀礼か、

 あるいはなにがしかの更新儀礼かをおこなったこともありえるが、

 それよりも現実的な解釈は、

 「新しい国造り」もまた「よみがえり」であるから、

 こういうものを築造して、新しい国のシンボル(象徴)にしたのである。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年1月13日火曜日

日本古代王族の婚姻系譜⑧


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 出典:柿本一征(かきもとかずゆき)・言語復原史学会正会員

 ≪日本古代王族の婚姻系譜≫

 「ヒメをめぐる雑考」

 さて、記紀神武天皇といえば、古事記の皇后選定段に

 「富登多多良伊須須岐比売命

  亦の名は比売多多良伊須気余理比売」

 という名があり、

 続いて

 「七媛女(ななおとめ)…その中に伊須気余理比売ありき、

  ここに大久米命(が云々…)」

 という部分がある。

 「七媛女」といい「八少女、八美女」というのは、

 古代の「ウーマンズ(ウイーメンズ)ハウス」とかかわる表現であろう、

 七と八の意味の鮮明は省略(僕はまだ解明していない)、

 大久米は倭・久(留)米でもあるのではないか、

 などと乱暴(?)な解釈で通過するとして、

 富=穂(=種子島)、登=投(馬国)(十島村やトカラ列島)、

 多多良=立(辰)の国(種子島であり、

 また徳之島町手手、武堆市立岩〈山の名または山中のある箇所の名》)、

 良伊=雷(雷山列石遺跡)、伊須須=伊勢の=伊邪国(鹿児島県伊作都)、
 
 気=岐=霧(之国)、比売(「ヒメ」タタラ…の方のヒメ)=姫=

 姫木山(鹿鬼島県隼人町国分市の境)、

 余理=依=ユイ=イエ=伊江島、壹国=イエッマ

 (加治木先生通信講座・現在も進行中)、

 などの名乗りが復原されるから、

 これはあきらかに壹與の名乗りでもある

 (この部分はP133加治木義博「邪馬壹国の風雲」

  魏志倭人伝詳解2原語復元史学会参照)。
 
 もっと強くこだわると、

 富登=太=フツ=仏=仏教、多良=多羅=倭国、

 多多須=(タンバヒコ・タタス・道主王《御中主》)のタタスで、

 これは天御中主神の別称か?

 (アーガタは如来、タターガタは如去を意味する

  パーリ語という研究がある)。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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 高床式神殿
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