2014年11月10日月曜日

第七代・逸聖尼師今


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 第七代 逸聖尼師今(在位134年-154年)


 (原文)

 逸聖尼師今立。儒理王之長子、或云日知葛文王之子。

 妃朴氏。支所礼王之女。


 四年春二月、靺鞨入塞、焼長嶺五柵。


 六年秋七月、隕霜殺菽。

  八月、靺鞨襲長嶺、虜掠民口。

  冬十月、又来、雪甚、乃退。


 七年春二月、立柵長嶺、以防靺鞨。


 九年秋七月、召羣公議征靺鞨。

  伊雄宣上言不可、乃止。


 十三年冬十月、押督叛、發兵討平之。

  其餘衆於南地。


 十五年、封朴阿道為葛文王

  (新羅追封王、皆稱葛文王、其義未詳)。


 二十年冬十月、宮門災。

  彗星見東方、又見東北方。


 二十一年春二月、王薨。 


 (訳文)


 逸聖尼師今が立った。儒理王の長子、あるいは日知葛文王の子ともいう。

 妃は朴氏。支所礼王の娘である。

 四年(137年)春二月、靺鞨が防壁から侵入し、長嶺の五柵を焼いた。


 六年(139年)秋七月、季節外れの霜が降り、豆類が枯れて死んだ。

  八月、靺鞨が長嶺に来襲し、住民を虜囚として掠奪した。

  冬十月、また来襲したが、雪が激しく、退却した。


 七年(140年)春二月、長嶺に柵を立て、靺鞨を防御する。


 九年(142年)秋七月、群臣を召集して靺鞨征伐を会議した。

  伊飡の雄宣が無理だと上奏したので、中止となった。


 「靺鞨」

  靺鞨(マツカツ)が続けて登場するが、

  粛慎の後裔は時代によって「挹婁、勿吉、靺鞨」と呼称を変えるが、

  靺鞨の名が登場するのは七世紀になってからのこと。

  従って、新羅本紀のいう靺鞨とは、

  高句麗か濊貊を指しているものと推察する。


 十三年(146年)冬十月、押督が謀叛、出兵して討伐し、

  これを平定した。

  その余の民衆は南の地方に移住させた。


 十五年(148年)、朴阿道を葛文王に封じた

  (新羅では王に追封する場合、

   皆が葛文王を称するが、その意味は未詳)。


 二十年(153年)冬十月、宮門が災害に遭う。

  彗星が東方や東北に現れた。


 二十一年(154年)春二月、王が薨じた。

 ※出典:新羅の歴史

 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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