2015年1月16日金曜日

日本古代王族の婚姻系譜⑪


 浦和レッズレディース
 『Yahoo!天気・災害』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 出典:柿本一征(かきもとかずゆき)・言語復原史学会正会員

 ≪日本古代王族の婚姻系譜≫


 「布都久留の鹿児島王朝」

 4 布都久留の鹿児島王朝、カゴサカ・オシクマ皇子は

 鷲住王の息子

 百済13代近肖古王(五十琴宿祢)の長男は伊呂弗で、

 蓋婁王の娘玉彦姫との間に真椋、洛、飯豊青の

 三人の子がいた。

 真椋はマクラ=枕で、鹿児島県の枕崎である。

 玉彦姫の兄多遅麻連公の后は安姫で、

 安姫は五十琴の妹五十琴姫(弟姫)の娘であり、

 父は五十功彦である。

 多遅麻には玉彦姫の他に、

 もう一人の妹(中姫=可足渾)がいた。

 さて、伊呂弗にも妹がいた…と前提(想定)して、

 これらの人物の周辺の系譜を作成する。

 その前に、履中6年2月の系譜の意味を解明しておくと、

 実にスバラシイ発見が出来る。

 それは次のようになっている。

 鮒磯(ふなし)別王━|鷲住王(履中天皇の妃の太姫郎姫は鮒磯別王の
           |太姫郎姫∥   娘で、鷲住王の妹だ…。)
            履中天皇∥


 「履中天皇は多遅麻」

 これを論証抜きで解明すると、次のようである。

 実は名前を入れ替えるだけで論証になっているのである。

 「系図M」

    7       8         9 

 |五十琴
 |五十琴姫 ∥
  (弟姫)   |驚住王      応神天皇∥
  五十功彦 ∥_|安姫    ∥_|山無姫 ∥
         (本姫郎姫)   |大別
 |清姫     ∥        |オナベ姫
  蓋婁王(陳安)∥_|多遅麻 ∥
           |中姫

 このように、鮒磯別王=五十功彦に他ならない。

 すると、

 前稿(「七支刀」)で多遅麻が

 百済14代近仇首王と解明しているから、

 百済本紀にある近仇首王の男(しゅうと)の真高道は、

 多遅麻の妃の父の五十功彦(=鮒磯別王)ということになる。

 応神天鼻の妃の別名の一つは太姫であるから、

 安姫(太姫郎姫)━太姫(山無姫)と、

 母と娘が同じ部分(「太姫」)を含みもっていて、

 天孫本紀は

 「山無姫(太姫)は履中6年2月条の太姫郎姫(安姫)の

  娘なんだ、

  その履中天皇は多遅麻のことなんだ、気付いてくれ」

 といっているのである。

 天孫本紀の麦入宿祢(「畑井系図」では

 伊呂弗の弟の位直にある《いる》)の妃は

 全能姫で目古連の娘とある

 (p8畑井弘「新版物部氏の伝承」三一書房参照)。

 この部分も世代関係を修正しないと、

 全く意味不明で歴史を解明する役に立たない。

 証明(修正の仕方は前稿(「七支刀」)の

 五十功彦の部分と同じだから省略して、

 真椋=麦入=伊呂弗の息子(長男)である。

 これらの人物の相互の婚姻をを系図にすると次のようになる。

 「多遅麻の系譜」

 「系図N」

      7           8     9     10

           多遅麻∥ |山無姫
    五十功彦∥_|安姫 ∥_|大別 ∥ |葦田
      |五十琴姫          福寿 ∥_|中磯姫
          |鷲住王∥       |里姫
                      |戸田
     香児姫∥ |娘  ∥ |カゴサカ皇子
          (伊呂弗  |オシクマ皇子
            の妹) |全能姫∥_|辞姫
   |五十琴 ∥_|伊呂弗        |大前
   |清姫  ∥      _|真椋 ∥ |小前
    蓋婁王 ∥_|玉彦姫∥  (麦入) |石持
    (陳安)
          |中姫   |洛  ∥ |小事
          |多遅麻   山無姫∥_(阿華王)
                      |木蓮子
                      |汝妹(多彼)


 「蓋婁王に関連のある地名」

 この蓋婁王と香児姫が兄妹であることは、

 前稿で既に確認している。

 驚住王は驚羽山=岡山県、住は住之江(博多湾?)、

 枕崎の真椋が「麦入」だとすると麦は妻木だから

 都満・霧(之固)、入=入来(いれき)である。

 「全能」はマッタクノだからマッタ(馬田、末羅)、

 マッ(タ)クラ(ノ=ロ=ラ、no=ro=ra)=マクラ(=真椋)

 だから、

 夫婦として同じ名前になるようになっている。

 10代目の世代の石持連について、

 右京諸蕃下に「石野連は百済国人の近速古王(近肖古王)の

 孫憶頼福留(真掠に相当)の後也。

 続紀天平宝字5年条百済人憶頼子老ら41人に

 石野連の姓を賜う、

 とあるから、

 五十琴(近肖古王)-伊呂弗-真椋-石持連…石野連

 ということになり、

 この系譜の信憑牲を証明する。

 憶頼は巨椋と同じ

 (京都伏見の巨椋池やマ・クラの倒置の

  クラ・マ=鞍馬寺の名とかかわりがある)である。

 速古=ハヤ・フルで隼人町・夫余で、

 近肖古王の都が南九州だったことがわかる。

 大前小前は御前(オマエ→ミサキ)と同じだから、

 地御前(広島県。ジゴゼンと読むがチのオマエとも読める)、

 赤穂岬(御前)、

 河内の「お日の御前」(谷川前掲書)の地名は

 彼らの進出地であることを示している。

 岡山県和気郡日生町=日の御前

 (ヒのゴゼ→ヒのゼ→ヒなゼ→ヒなセ=ひなせ)→日生。

 大前小前が日(種子島、豊前豊後)の

 神前(お上)だったのである。

 赤穂は阿華・穂になる。

 島根県日の岬(御崎)は多遅麻や伊呂弗は

 若狭まで進出していた

 (小林「4C」)ことから類推できるのではないか。


 「裏返しの系譜も完全一致 史実確認の一手法」

 但し、この系図は上のパターンと少し違うではないか、

 と、不満として、

 この裏返しの系図を求めてみると、

 完全に一致する系図が得られる。

 「系図P」

    紛西 _|胆咋      ∥_|五十琴    ∥_|伊呂弗
        (景行天皇)   (彦人大兄王)   (大名方王)
         比メ古  ∥  香児姫    ∥  |大中姫    ∥_|全能姫
        (カグロ姫)     (銀王)        鷲住王    ∥  |カゴサカ皇子
                                                 (仲哀天皇)   |オシクマ皇子

 鷲住王の妹も娘も、とにかく、

 はらわたに染みる声を出して泣く女性だったと

 仁賢6年条に書いてあるから、

 内礼=奈良姫(奈落=浄土=葬式に従事した女性)だったのである。

 布都久留である枕流王は384、385年の在位だから、

 この頃、

 苻洛は命もからがらに「枕崎に流れ着いた」

 (「枕流」王の意味するところ)のである。

 この頃、彼(苻洛=布都久留=応神天皇)の従兄弟にあたる

 カゴサカ、オシクマ皇子がなんらかの事情があって

 (「応神天皇の即位を妨げようとした」ということから類推)、

 両者の間に攻防があったということで、結果的には布都久留が勝利した。

 ここで僕が考察したいことの力点は、

 両者の攻防の内容や因果の究明にあるのではなく、

 神功皇后が赤ん坊の応神天皇を連れて

 (武内宿絹がおんぶだか抱っこだかして)

 近畿地方に攻め込んだ…という、

 多くの従来説のいい加減さについて、ということである。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

0 件のコメント:

コメントを投稿